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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

《以下引用》
血肉で蒔かれたわれわれ人間には死が避けられない。ところが、イエスのアポクリュフォンの一つは死すべきものから不安なるものへと人間を連れ戻し、再び死を味わうことがないように用意を整えることであった。すると、そもそも土で造られた肉体という形をとって存在すること自体に問題が在りはしないかということだ。そう、われわれは何よりもこの患いの本である肉体(老子の言葉)、あるいは空海が「六道の苦身」と呼んだものから開放されなければならないのだ。
《引用終わり》

解剖学的に人体が矛盾だらけであることを考えると、これが全知全能の手による被造物としては余りにお粗末です。「土で造られた肉体」は泥船のようでもあり、そう「いう形をとって存在すること自体に問題が在りはしないか」という指摘は当然のように思います。

《以下引用》
しかし、肉体から開放されるためには、心という要素から解き放たれねばならないと気づいている人は少ないようだ(「生死を離るゝをいうなり」『一遍上人語録』)。というのも、生と死という、一見肉体にかかわるように見える出来事も、実は、心に深く根ざしたものなのだ。心と肉体の関係を大変分かり易く言ったものとして、リチャード・バックの「我々の肉体は思考そのものであって、それ以外の何ものでもない」(『かもめのジョナサン』)を例に説明してみよう。ここでは思考となっているが、心と理解しても大過はない。肉体は思考(心)そのものであるという彼の洞察は、仏教的に言えば、「生死(肉体)はただ心より起こる」(『華厳経』)ということになるだろう。ともあれ、肉体から開放されるためには思考、つまり心の鎖を断たねばならないのだ。彼が続いて「それ(肉体)は目に見える形をとった君たちの思考そのものに過ぎない。思考の鎖を断つのだ。そうすれば肉体の鎖も断つことになる」と言うのもそのためだ。肉体は思考(心)を離れて存在しないから、思考の鎖を断つことが肉体の鎖も断つことにもなる。われわれを構成している肉体と心(思考)の要素から自由にならない限り(仏教はこの二つの要素を本来一つのものと考え「身心一如」と言う)、われわれは本当の意味で自由に天翔ることはできないのだ。
《引用終わり》

思考は、前出の3つの身体(霊的、心的、物質的)の心的に属します。悟ったときに残るのは霊的身体でしょうから、「悟り」ということで大別すれば霊的と心的・物質的の二つに分かれます。ゆえに「身心一如」。

科学的に見ても、思考とは脳神経の活動と言えるので、思考と肉体を一つに扱うのは変ではありません。また、思考は、随意運動はもちろんのこと、ホルモンの分泌や自律神経にも大きな影響がありますから、「肉体は思考から離れて存在しない」というのも変ではありません。

もっとも、ここでは唯心論的な意味合いを含んでいるんだと思いますが…。

「思考の鎖を断つ」とは、「止」のことでしょう。

《つづく》