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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
自己認識が神認識である(キルケゴール、そしてスーフィズムの思想家イブン・アラビーなどが好んで引用する「自己を知るものは主(神)を知る」というハディースを踏まえた成句)とは、自分自身を知るというのではなく、あなたが無の中に消え去り、神と一つになることによって、自分が神以外の何ものでもなかったと知ることなのだ。…

自己認識への道をわれわれが辿るとき、その行き着いた結論が「自己自身を見出す者に、この世はふさわしくない」というのであれば、宗教がこの世に適応するためにあるのでないことだけは明らかである(私は宗教を自己認識に至る方法論を説くものと考えているから)。自己を認識するに至った完全な人間はもはやこの世には属していないだけではなく、生と死からなる幻影の世界を超えた永遠のいのち(まことのいのち)に到達している。
《引用終わり》

仏教を御葬式の作法としか捉えていない人にとっては、仏とは死んだ人のことでしかないでしょうから、「死んで仏になる」という言葉に何も違和感は感じないでしょう。私も仏教の勉強をするまではそうでした。

その場合、「即身成仏」という言葉がやはり引っかかります。死なないで仏になるというのは言語矛盾でしかないからです。

確かに、ちゃんとした仏教の中でも「即身成仏」に関する議論は続いているんでしょうけど、仏(真の覚者)になど何回生まれ変わってもなかなか成れるものではないという考えから、今生で仏になろうなんていうのはどうだろう?というのが論点なのだと思います。

ところで、「死」の意味が「大死」だとすれば、「死んで仏になる」というのはこれまた全く当たり前な意味でしかありません。

妄念の塊である仮我が死ぬということは、即ち悟りを開くということ(上の引用文で言えば「無の中に消え去」ること)。仏(ブッダ)になることにほかなりません。肉体的な死を意味するわけではないので、「即身成仏」という言葉にも特に引っかかるところはありません。

「死んで仏になる」という表現が、仏教を単なるお葬式の作法に誤解せしめているとしたら、とっても残念なことです。

《つづく》