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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
伝統的なキリスト教が混乱し、躓きの石とも言うべき処女性という概念は、女から生まれた命(肉体)が死すべきものに定められているのに対して、イエスだけではなく、われわれの中にも、女から生まれたものではない何かが存在することを分からせようとして編み出されたレトリックなのだ。素直さはときに愚直となるだけではなく、危険でもある。なぜなら、真実を見ることよりも、人を一生過誤の中に閉ざす堅牢なバリアーともなるからだ。もちろん、性を介し、女から生まれた血肉のからだは神の国を継ぐことはできないが、この朽ちるものの中に朽ちないものが隠れ住まうのだから、ことさら性、あるいは性を通して生まれてくるものを貶めることもなければ、逆に、出自を捻じ曲げて、敢えて言挙げする必要もない。そうでなければ、われわれをして終生間違った信仰に閉じ込めることになろう。「真珠は泥の中に投げ込まれても、価値を失いはしない」と言った『ピリポの福音書』の言葉を思い出してほしい。
《引用終わり》

「性」に関する箇所にやっと辿り着いたようです。

これはとても興味深い指摘です。このようなレトリックを使っているがゆえに、キリスト教の神は常に「父」と呼ばれるのでしょうか。

「朽ちるもの」の中に「朽ちないもの」が存するという形で生き物が成り立っていると説明するのであれば、肉体と魂という捉え方でいいと思います。「物」と「心」という区別でもいいかもしれない。「朽ちるもの」である肉体は、性の営みによって発生する。「朽ちないもの」はそれとは全く無関係に存在すると。

「女」という言葉を使った説明が、却って真理を見えなくしてしまったということでしょうか。

《つづく》