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「現代ソフィスト伝」の第二部「四、学力の外にあらわれる個人差」の「2、自分から学ぼうとしない(1985〜1988)」の「5 教材進度とイコールの自学自習力」を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用》
…個人別の指導には不思議な魅力がある。授業の首尾にだけ気をつかう熟練の教師とはちがって、生徒のことしか頭にうかばない。

…指導者と生徒との間のコミュニケーションが密になれば、指導する側に新たな責任が生じて、「夢」にまで見る。公は、この「夢」のことを「反省」といっているが、生徒の自習力を前提とする教育だからこそ、「反省」が生まれるのである。講義主体の先生は、慣れれば反省はしなくなるし、経験のあさい先生だったら、忘れた方がラクだから、反省さえしない。
《引用終わり》

こう一概に決めつけるのもどうかと思いますが、確かに学校の先生方は様々に気を使うところが多く、子ども一人一人を見つめるということが難しくなっているような気がします。

《以下引用》
20年あまり前の集合教育が盛んだった頃、答えが出ることよりも数学の考え方は大切であると言って、28+16=といった問題も早く答えが出せなくてもよいと言われたことがありました。私は「こんなもの、考えないで答えが出なくてどうするか。この程度の計算でいちいち考えているようでは、数学ができるはずがない」という立場をとってきました。分数の意味がわからないで答えが出せても仕方がないという意見もありますが、E教材、F教材〔分数計算・四則混合計算の教材〕の答えが早く出るような力がついてくると、分数の意味はおのずとわかってくるものです。できてから、わかる。だからこそ、幼児でも自習で進んでいけるのです。意味がわかることにこだわって、いたずらに時間を費やすより、短時間でさっとできることのほうがはるかに大切ではないか。…(『山彦107』1987)

公は、考えなくてもいいなどとは、ひと言も言っていない。
「こんなもの、考えないで答えが出なくてどうするか。この程度の計算でいちいち考えているようでは、数学ができるはずがない」、この学習力をどう読み取るか。そろばん日本一のような、機械のように正確な暗算能力を求める言葉だろうか。そうではない。子どもが自習で学んでいるときの姿を想像してもらいたい。考えなくても答えが出る、こうした学習姿勢をもって問題に向かう子どもをイメージするのだ。

公の繰り返して言う「作業力」の実体が、数多くの生徒事例をかかえこんで、だんだん明確になっていた。理解と作業とがバラバラな状態では、学習はとても順調とは言えない。自習ができる状態を念頭において、作業と理解とがいっしょに熟しているかどうかが指導のポイントになるのだ。

生徒が学習を完全に自分のものにして、余裕をもった状態になるとき、初めて「ちょうど」が成り立っていく。「作業のちょうど」と、「理解のちょうど」と公がいうのは、学習に入る生徒の気持ちまでもが、しぜんな流れをもって、自習ということすら意識になく、スッと学習に流れ込む状態のことをさしている。
《引用終わり》

「作業」「理解」「ちょうど」という重要なキーワードの関係が明確になりました。そして、もうひとつ大事なものが「読書力」。

《以下引用》
読書とは、わかりやすくいえば、読んでわかる力、すなわち、「書き言葉」についての理解力のことである。書き言葉は、性格がもともと話し言葉とちがって、言葉による通じ合いの断念から始まる性格をもつ。読み手は読み手自身の想像力を駆使しなければならない。想像力のともなった理解力、これが子どもたちのもっとも苦手とする力だし、自学自習においてもっとも必要になる力なのだ。
《引用終わり》

公文式が目指す、生徒の理想的な状態がハッキリしてきました。

《つづく》