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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第二章 神の国・地の国」を読みました。

ところで、神の国(浄土)はどこにあるのか?地の国(穢土)はどこか?

《以下引用》
六年におよぶ修行の結果、悟りを開いたとされるブッダにとって、この世の見るものすべては美しく、欠けるものは何もない。いわば仏土(浄土)と映っている。しかし、弟子たちの目にはとてもそうは見えていない。むしろ穢土といった方がふさわしいのではないかと弟子の一人であるシャーリプトラが疑問に思っていると、ブッダは、彼の心を察し、太陽や月の光が輝いていても、目の不自由な人にとって闇としか映らないように、この世は仏土であるけれどもそう見えていないのは、あなたがたの咎(罪)であって、誰のせいでもない。この世が仏土と見ることができないのはあなたがたの側に問題があるとして、「舎利弗よ、我が此の土は浄けれども汝見ざるなり」と結んでいる。
《引用終わり》

「耳ある者は聞け」の目バージョンみたいなものですね。

耳があったとしても超音波は聞こえません。超音波が聞こえるコウモリやイルカと人間とでは同じ音を聞いても聞こえ方が違います。

目があったとしても赤外線や紫外線は見えません。紫外線が見える昆虫と人間とでは同じ物を見ても見え方が違います

「六塵ことごとく文字なり(空海)」という言葉があります。五官が感じ取るものは全て文字のように意味を持つけれども、読み取る能力がなければ意味を見逃してしまうということだと私は解釈しています。

チューナーを合わせないと雑音しか聞こえないラジオ、砂の嵐しか見えないテレビ(これはアナログ時代の話ですね)。同じ電波を受信しているのに、周波数が合っている者と合っていない者とでは、聞こえ方も見え方も全く異なる。周波数が合った時、「この世の見るものすべては美しく、欠けるものは何もない」ように見えるわけです。

《以下引用》
彼の弟子たちが彼に言った、「どの日に御国は来るのでしょうか」。イエスは言った、「それは待ち望んでいるうちは来るものではない。『見よ、ここにある』、あるいは『見よ、あそこにある』などとも言えない。そうではなくて、父の国は地上に拡がっている。そして、人々はそれを見ない」。(『トマスの福音書』113)
《引用終わり》

こちらでもブッダとシャーリプトラのやりとりのようなことをしています。真理は同じだということです。悟りとはそういうものでなければおかしい、と私も三年前に思っていて、その後に「龍樹」がニルヴァーナブッダについてそういうことを書いていることを知り、うれしく思ったものです。

《つづく》