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「現代ソフィスト伝」の第二部「四、学力の外にあらわれる個人差」の「1、教材が進んでも能力が広がらない(1983〜1985)」の「1 可能性を伸ばす仕事」「2 コップは一つ一つ大きさがちがう」を読みました。(小林教室収蔵

1983年に社名を「公文数学研究会」から「公文教育研究会」と改め、既に数学だけでなく英語と国語を増やしていましたが、さらに盆栽、囲碁など教育以外の領域にも公文式のメソッドを用いて教材化を進めようとしていたそうです。そして、会のスローガンも「個人別・学力別指導」から「ひとりひとりの可能性を伸ばす」に変更しました。

《以下引用》
可能性を伸ばす教育に「方法」があるということを世間に知らせること自体、意味のあることではないか。この方法が世の中に行きわたれば、子どもたちはもっと容易に自分を伸ばしていけるのだ。今のままではあまりに障害物が多すぎる。だから、研究会は子どものこの可能性に応えられるだけの準備をしなければならない。これからの教育の仕事は、何かを教えるという仕事から、子どもの可能性を伸ばす仕事へと展開していく。(p493)
《引用終わり》

子どもの個人差・能力差については以下の記述が興味深かったです。

《以下引用》
…普通の子どもが一教材先で身につく感覚が、能力の低い子どもの場合は二教材先まで進まないとつかない場合があり、能力の高い子どもであれば半教材先で身についたりするのです。公文式の指導経験がまだ少なく、先に進んだ生徒をもったといっても、もともとの能力のかなり高い生徒の場合しか経験がないと、まだまだ公文式の実態を知ることができません。私たちが注意しなければならないことは、こうした優秀児のケースと他の生徒とを比較してしまうことです。「優秀なA君は半教材先の時にかなり応用力も感覚もあった、それなのにB君は半教材先に進んでいるのに、まだまだその力はない。お母さんも『計算は十分にできるようになったが、文章題や他のことができない』と言われる。能力のさほど高くない子どもには、やはり計算だけでは感覚や応用力は育たないのでは」という不安にとらわれることがあります。しかし、だからと言って文章題などの練習をしたところで、まだまだ感覚が育ってないのですからいっこうに力はつきません。このような生徒こそできるだけ先に進めることが大切です。そうすれば必ず、ある段階まで進んだところで急に感覚がよくなり、応用力がついてきます。(『山彦79』1983)
《引用終わり》

能力の低い子どもの場合は逆に教材をずっと先まで進ませてしまうという、常識からすると全く逆のような指導法もアリなんですね。結果として、その子どもが伸びるのであればそれでいいわけです。

これは、同様のことが以前にも書かれていました。「…六年生の算数がよくわかるためには六年生の参考書を多くあたってみるというのは、すぐれた勉強法とはいえません。むしろ、中学一年生、二年生と進んで勉強してみることが大切です。…(「進度一覧表」1972)」おそらく、公氏が経験的に到達した持論なのでしょう。

学校の授業のように一斉に進んでいく場合では、これに似た状態が自然に発生してしまうことはあるでしょう。分からない子が分からないまま先に進んでしまう状態です。要するに落ちこぼれですね。

公文式の教材を先に進ませることが落ちこぼれを作ることにならないのは、先に進んで別な方面からの展望が開けた時に、また前の教材に戻るということができるからです。一年先、二年先の教材へ数カ月で進み、ポーンとまた元に戻って必要な箇所だけ復習するということができるからです。

学校の通常の授業でこれをやるためには、一年とか二年とかの歳月がかかってしまいます。それでは、もう取り返しのつかないほど貴重な時間が失われてしまうことになります。ポーンと二年前に戻って復習してみましょう、なんてフォローも学校の先生はしてくれません。これでは、脱落する子が出てしまうのは当然のような気がします。

《つづく》