「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。
人々は二元葛藤の世界から離れようとしない。罪とは、そのこと。悪が罪ならば、善も罪。
《以下引用》
人は時に不条理な事件などに巻き込まれると、つい何の罪もないのにどうしてこんな不幸な目に遭わねばならないのかと言う。ここには何も悪いことはしていないのにどうしてという想いが働いているようだ。しかし、考えてみなければならないことは、罪とは悪しき行い(不善)をいうのだろうか、そうではない。悪は罪(堕罪)の結果生じてきたものであり、悪だけではなく善もまたそうなのだ。つまり、堕罪の結果、われわれは善悪、幸不幸など二元葛藤する世界へと退転してきたということだ。従って、罪はもとより何ら価値を伴うものではなく、われわれが「本来の場所」から堕ちてきた事実を指しているに過ぎない。そして、「罪から来る報酬は死です」とパウロも言ったように、生と死もそうなのだ。なぜなら死は生(誕生)なくしてあり得ないからだ。
《引用終わり》
仏教の視点から『瞑想の心理学』でも同様のことが述べられていました。
《以下引用》
…ひとりの人(アダム)によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、死が全人類に拡がったという一連のプロセスは(『ローマ人への手紙』)、決して彼に何かが欠けていたというのではなく、自ら内に懐いた「大いなる富」に目を閉ざし、過ぎ行く「世の富」を求め始めたに過ぎない。
イエスが言った、「アダムは大いなる力と大いなる富から成った。それにもかかわらず、彼はあなたがたにふさわしくならなかった。なぜなら、もし彼がふさわしくなったなら、彼は死を味わうことがなかったであろうから」。(『トマスの福音書』85)
《引用終わり》
「大いなる富」とは真心(心真如)、「世の富」とは妄心(心生滅)と置き換えれば、これは全く仏教と同じに読めそうです。
《つづく》
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。
人々は二元葛藤の世界から離れようとしない。罪とは、そのこと。悪が罪ならば、善も罪。
《以下引用》
人は時に不条理な事件などに巻き込まれると、つい何の罪もないのにどうしてこんな不幸な目に遭わねばならないのかと言う。ここには何も悪いことはしていないのにどうしてという想いが働いているようだ。しかし、考えてみなければならないことは、罪とは悪しき行い(不善)をいうのだろうか、そうではない。悪は罪(堕罪)の結果生じてきたものであり、悪だけではなく善もまたそうなのだ。つまり、堕罪の結果、われわれは善悪、幸不幸など二元葛藤する世界へと退転してきたということだ。従って、罪はもとより何ら価値を伴うものではなく、われわれが「本来の場所」から堕ちてきた事実を指しているに過ぎない。そして、「罪から来る報酬は死です」とパウロも言ったように、生と死もそうなのだ。なぜなら死は生(誕生)なくしてあり得ないからだ。
《引用終わり》
仏教の視点から『瞑想の心理学』でも同様のことが述べられていました。
《以下引用》
…ひとりの人(アダム)によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、死が全人類に拡がったという一連のプロセスは(『ローマ人への手紙』)、決して彼に何かが欠けていたというのではなく、自ら内に懐いた「大いなる富」に目を閉ざし、過ぎ行く「世の富」を求め始めたに過ぎない。
イエスが言った、「アダムは大いなる力と大いなる富から成った。それにもかかわらず、彼はあなたがたにふさわしくならなかった。なぜなら、もし彼がふさわしくなったなら、彼は死を味わうことがなかったであろうから」。(『トマスの福音書』85)
《引用終わり》
「大いなる富」とは真心(心真如)、「世の富」とは妄心(心生滅)と置き換えれば、これは全く仏教と同じに読めそうです。
《つづく》
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