ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第十 入鄽垂手」を読みました。

《以下引用》
さて、第十図の「入鄽垂手」をよく見ると、境(自然)だけであった第九「返本還源」とは異なり、再び人が登場し、人境(環境)が倶に描かれている。しかし、もちろんこれは第七「忘牛存人」まで辿ってきた人境ではない。少なくとも、それらは第八図の「人牛倶忘(人境倶忘)」を経てきたものである。…

胸を露わし足を跣(はだし)にして鄽に入り来たる
土を抹(な)で灰を塗り笑い腮(あぎと)に満つ


…それは仮我と真我の違いであり、彼がわれわれ人間と外見上異なる風貌をしているというのではない。…しかし、覚った様子をいささかも見せず、いかなる言葉も絶えた無本質(無位)、あるいは誰でもないもの(無我)になっている(「自己の風光を埋めて、前賢の途轍に負(そむ)く」)。

…時間・空間を隔てた無の帳の彼方へと消え、存在と一味になった彼は、今や、どこにも拠所を持たない「一無依の道人」として存在している。独り柴の門を閉ざした彼の「家」がいかなる拠所も持たない無だということ(窟中に一物無し)、そして、空々堂々、清浄にして一塵を受けず、光華、明らかな「一窟」が人間の帰るべき我が家として、すべての人の実存深くに隠されていることをわれわれは知らない。さらに、この寄る辺なさこそ全き自由だということがどうしても理解できず、常に何かに拠所を見出そうとしているのがわれわれ人間なのだ。それは人(家族)や物(金銭)であり、また組織(会社)や趣味(サークル)であったりとさまざまであるが、それらすべての根底にある拠所こそ「私」であり、その非を説いているのが仏教における「無我」の思想なのだ。…

(「柴門独り掩(おお)うて、千聖も知らず」)

…宗教における悟りとは、本源(真源)の中へと死の飛躍をする(大死)という逆説を通して、永遠のいのち(不生の生)に蘇ることなのだ。そのために長生不死の方法を説いたとされる神仙の妙術を用いるには及ばない(「神仙の真の秘訣を用いず」)。…

このように大我(真人)としての自らに誕生を齎(もたら)した者にとって、当然のことながら、世界(境)もまたわれわれが主客の認識構造で捉える三界・六塵の境界(妄境界)ではない。それは白隠の言う「蓮華国」であり、見るものすべてが本来の耀きを見せ、その様子を「直だ古木をして花を放って開かしむ」と詠んでいるのだ。それは空海が草木のようなものまでもが成仏すると言ったことでもある。われわれ人間の目(衆生眼=肉眼)で見るならば、草木も粗い色形に過ぎないが、覚者の目(仏眼=慧眼)を通して見るときそれは微細な耀きを放っている。…

…世間へ出かけて行く彼は一体何を引っ提げて迷道の衆生に向かうのであろうか。それはかつて理由も分からず生々死々を繰り返し、呻吟していた自らの姿をわれわれ衆生の中に見、「衆生をして頓に心仏(本源清浄心が本源清浄仏であること)を覚り、速やかに本源に帰らしめん」がためなのだ。…

たとえ「酒肆魚行(しゅしぎょこう)」の巷であっても、「化(け)して成仏せしむ」ことにもなろう。しかし、決してそこに長居はしない。いそいそと家(一窟)へと帰り、独り無為の凝寂の処に憩うのだ(「瓢(ひさご)を提(さ)げて市に入り、杖を策(つ)いて家に還る」)。
《引用終わり》

悟った者は、さりげなく衆生の中に入って、本源へと導く…そういう者に私はなりたい。

《つづく》