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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第九 返本還源」を読みました。

《以下引用》
サンサーラ(生死)はニルヴァーナ(涅槃)に他ならないことを「有相の栄枯を観じて、無為の凝寂に処す」と言う。ここに無為とあるが、有為との違いは行為する人がいるかいないかの違い、つまり有我(自我)と無我の違いなのだ。では、有我と無我の違いは何に拠るかと言えば、われわれが心(妄心)を有するか、否かの違いなのだ。…

…あなたがほんの一瞬でも無我となって真我に蘇るならば、たちまち真理(不変真如)は了々とその全体を顕し、もとより修治を仮る必要もなかったと知るのだ。その時、真理は寂滅現前して欠けるところがなく、一瞬一瞬、創造と破壊を繰り返しながら日々新たにされていく。…

幻化に同じからず、豈(あ)に修治を仮(か)らんや
水は緑に山は青うして、坐(いなが)らに成敗を観る


自心に惑い、迷情妄起して闇路に闇路を重ねて来た者が「尋牛」、「見跡」とわれわれには帰るべき真源(心源)があることを知り、経典にあたって方法を探り、悟りの階梯を一歩一歩と辿ってきたが、いっそ盲聾の如く「ただ直下に無心ならば」、妄心の雲は晴れ、「本体は自ら現じ」(『伝心法要』)、たちまち真我を覚って「自家の宝蔵」を開くと、もとよりそこは「本来清浄にして、一塵を受けたことがない」。

本に返り源に還って已(すで)に功を費(ついや)す
争(いか)でか如(し)かん 直下に盲聾(もうろう)の若(ごと)くならんには


…「私とは何か」を知ろうとして探究を始めると、私とは心が仮構した「五蘊の仮我」に過ぎず、その心が心源へと消えると私だけではなく、これまで見ていたすべてのもの(境)が消え、その後には無あるいは空だけが残る。これが第二の「見る」、というよりは見ないことであり(不見)、第八「人牛倶忘(人境倶忘)」がそれを表している。われわれの内なる実存は無あるいは空の寺院(庵)であり、そこに到達した人、といってもそこには誰もいないのだから、正しくは、無我となった人(?)は外にも内にも何も見ていないのだが、無の鏡に再び自然(境)が顕れてくるのは第九「返本還源」なのだ。

庵中には庵前の物を見ず
水は自(おのずか)ら茫茫 花は自ら紅なり

《引用終わり》

悟りの庵に戻った時、同じ風景が違って見える…目からウロコと言うか、目から塵と言うべきか。

《つづく》