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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第八 人牛倶忘」を読みました。

《以下引用》
世界を幻影あるいは夢の如しと見た人たち(覚者)はこれを瞑想のプロセスのある段階で(『十牛図』では第八「人牛〈人境〉倶忘」を指す)知ったのであって、そうでない殆どの人々にとっては、この世界は幻影どころか存在する唯一リアリティのある世界と映っているのだ。…覚者…は道を求め、慧海のように先師を訪ねた果てに、心の他に仏はなく、ただ自心に迷うがゆえに六道の波は妄起すると知って、意縁走作する心(妄心)を息め、有仏(瞑想の中で仏や神を見ること)、無仏のところを走過して、心源へと辿るとき、やがて人境(自己と世界)が倶に銷殞し、我が家へ帰り着くとそこはもとより無、あるいは空であったと覚るのだ。

凡情脱落し、聖意みな空ず
有仏の処、遨遊(ごうゆう)することを用いず
無仏の処、急に須(すべか)らく走過すべし

…これを宗教的覚醒(悟り)の体験と呼ぶが、体験と呼ぶには少し注意を要する。普通、経験には経験する人がいて当然であるが、そこに体験するあなたはもういないからだ。たとい神秘的なビジョンを見たとしても、それが仏(神)であっても、また宇宙との一体感を味わったとしても、そこにあなたが存在する限り、それを宗教的覚醒の体験とは言わないのだ。

両頭に著(お)らざれば、千眼も窺い難し
百鳥花を含むも、一場のもら



慙愧す 衆生界已に空ず
箇中の消息 若為(いかん)が通ぜん
後に来る者なく 前に去(ゆ)くものなし
未審(いぶかし) 誰に憑(よ)ってか此の宗を継がん
《引用終わり》

むかしむかしあるところで、宇宙は始まりました。
でも、「いつ(時間)」も「どこ(空間)」も、宇宙の中にしかないから、
それは、「いつ」でもない「どこ」でもない出来事。

「われ」も同じ。
思うがゆえに「われ」はある。
思うのを止めたとき、「われ」は消え去る。
「いつ」でもない「どこ」でもない存在に帰る。

《つづく》