ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第七 忘牛存人」を読みました。

《以下引用》
…真理(法)に主客の二法はないけれども(「法に二法なし」)、この妄心が捕えるもの(人)と捕えられるもの(牛=心)の二つに自心を分けているだけなのだ。その差異を『十牛図』は蹄兎(ていと)と筌魚(せんぎょ)を例に挙げて説明している(「蹄兎の異名に喩え、筌魚の差別を顕わす」)。蹄は兎を、筌は魚を捕える道具であるが、心をもって妄動する心を捕えようとしてきた人が、第七「忘牛存人」に至って、その心をも除くことが求められているのだ。…

心ゆえに迷いに迷いを重ねてきたのであり、一方「自家の宝蔵」である本源清浄心はいかなる心の塵にも染まらぬ真心であり、われわれは心を除いて自家奥裏の心源へと辿って行けばいいのだ。…(「金の鉱より生ずるが如く、月の雲を離るるに似たり。一道の寒光、威音劫外(いおんごうげ)」)。

そうして、遂に心が心源へと消え、無心(真心)となれば、そこがあなたの永遠の家郷(家山)なのだ。…そこにはあなたがかつて経験したことのない深い沈黙と静寂がある。あたかも波が消えれば海はあらゆる清濁を飲み込んで何ごともなかったかのように鎮まりかえるように、あなたは全ったき静寂の中に独り停む。

牛に騎(の)って 已に家山に到ることを得たり
牛も也(ま)た空(くう)じ 人も也た閑(しず)かなり
紅日三竿(こうじつさんかん) 猶(な)お夢を作(な)す
鞭縄(べんじょう)空しく頓(さしお)く草堂の間

《引用終わり》

この世を生きるということは虚妄の世界を生きるということであり、そこで上手に生きるということは二元論的区別をこなすことです。この区別の上に言葉が生じてきます。そして言葉の上に観念とか概念は生じます。

苦悩もまた、そうかもしれません。よって、それらを取り去った時、深い沈黙と静寂は訪れる…

《つづく》