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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第六 騎牛帰家」を読みました。

《以下引用》
…仏教は、何か目的のために忙しく散走することではないが、少欲知足を美徳としたり、清貧の生き方を説いているのでもない。「自家の宝蔵」が示すように、宗教とは自らの家郷(家山)に辿り着きさえすれば、そこにすべては円かに具わり、一つとして欠けるものがという体験なのだ。その時すべての欲望が消える、少欲すらない。…

…仏教(宗教)は、ややもすると禁欲を説いているように思われるが、そうではない。欲望とは「自家の宝蔵」を知らず、家郷を投げ捨てて、外へと彷徨い出たあなたのあがきであり、空しい努力であると教えているのだ。なぜなら、あなたがこの地上で手に入れるものであなたのもとに永遠に留まるものなど何かあるだろうか。名誉、地位、権力、財力…何であれ、あなたはすべてを残して独り旅立つ。だから馬祖は、言葉の最も厳密な意味において、あなたのものと言えるのはただ一つ「自家の宝蔵」であり、それを顧みることなく、何をし、何を手に入れようとも無意味だと言おうとしてのだ。
《引用終わり》

本源に帰るという思想は洋の東西を問わないということで、プロチヌス、エックハルト、『トマスの福音書』が取り上げられています。

《以下引用》
…例えば、怒りを鎮めなければとんでもない結果を招くかもしれないと必死に怒りを抑えようとしている人がいるとしよう。怒り(客)とそれを抑制する人(主)の間にある主客の分裂が葛藤を生み出していることは確かだ。そして感情的に激することなく、理性的に振る舞えば、世間では大人だと見なされる。それはそうに違いないが、ここで問題なのは、怒りもその人なら、抑えるのも同じ人であることだ。われわれの経験として主客が二つあるように見えるが、実は心が自ら抑制するものと抑制されるものに分かれているだけなのだ。

第四「得牛」第五「牧牛」において、人牛が繰り広げてきた争いもまた心の分離がもたらしたものであり、心でもって心を抑制しようとしてきたのだ。それが第六の「騎牛帰家」に進むと、人牛(主客)の争いも終わり、まだ主客の区別は残るものの、主客は共に心が仮に区別したまやかしと認識しているために、もはや二元論的な見方に惑わされることなく、心を摂してその本源へと帰ろうとしているのだ。…

干戈(かんか)已(すで)に罷(や)み、得失還(ま)た空ず。樵子(しょうし)の村歌を唱え、児童の野曲を吹く。身は牛上に横たえ、目は雲霄(うんしょう)を視る。呼喚(こかん)すれども回(かえ)らず、撈籠(ろうろう)すれども住(とど)まらず。…

しかし、第六「騎牛帰家」ではまだ人牛(主客)が断じられるところまではいかない。…

牛騎って迤邐(いり)として家に還らんと欲す
羗笛(きょうてき)声声 晩霞(ばんか)を送る
一拍一歌 限り無き意
知音は何ぞ必ずしも唇牙(しんげ)を鼓(こ)せん
《引用終わり》

見つめられる自分と、それを見つめる自分。分離はしているが、激しい葛藤、渇望はない…そんな状態。

《つづく》