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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第五 牧牛」を読みました。

《以下引用》
…思考と思考するものは同じ心であり、思考は思考するものであるのだ。

思考と思考するものの間にある見せかけの距離に欺かれ、思考を追い求めていくこと、それが欲望なのだ。そして生はどこまでも欲望の投影であり、その達成にこそ生の意味はあると見ているのであろうが、欲望の本質は今述べたように、心が生み出したものを心が追い求めるという矛盾なのだ。言うことが憚られるが、人間とは目の前に自分でぶら下げた人参を把えようとして走り続ける馬のようなものなのだ。
《引用終わり》

これに気づくことが「前思纔(わず)かに起これば、後念相い随う」であり、「止」ということなのでしょう。思考(妄想)が消えると、それを生み出していた心も妄りに動くことを息(や)め、無為寂静の本来の心に帰っていきます。

《以下引用》
真源を覚れば「本覚の真心」となり、たちまち六道・四生を出て、真実の自己(仏)に目覚め、迷えば「不覚の妄心」となって、三界虚妄の世界に沈淪する凡夫(衆生)となる。

「覚(さと)りに由(よ)るが故以(ゆえ)に真と成り、迷いに在るが故以に妄と為(な)る」
《引用終わり》

その境い目は紙一重…

《以下引用》
…心は、われわれが経験するあらゆる悲喜劇の創造者であるだけでなく、奇妙なことに、その悲喜劇に一喜一憂しているのもまた心なのだ。このように一切の境界はただ心が妄りに起こるがゆえに存在するのであって、決してその逆ではない。

「境に由って有なるにあらず、唯だ心より生ず」

だから第五「牧牛」では妄りに動く心(牛)をしっかりと捕え、ためらうことなく真源(心源)へと帰っていく様子が描かれているのだ。

「鼻索牢(つよ)く牽(ひ)いて、擬議を容(い)れざれ」
《引用終わり》

妄念を止めれば、心はおとなしくなって、真源へと帰っていく…

《以下引用》
従って、われわれは心あるいは欲望のからくりに気づき、妄動する心をあえて除こうとするのではなく、いわんや、追い駆けるのでもなく、善悪・凡聖など一切言わず、心の動きをひたすら観察するならば(時時に鞭索するならば)、心はその落ち着きどころを自ら見出して、その本源へと自然に消え去るのだ。

鞭索(べんさく) 時時 身を離れず
恐るらくは伊(かれ)が歩を縦(ほしいまま)にして埃塵(あいじん)に惹かれんことを
相い将(ひき)いて牧得(ぼくとく)すれば純和せり
羈鎖拘(きさこう)することなきも自(おのずか)ら人を逐(お)う
《引用終わり》

《つづく》