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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第三 見牛」を読みました。

《以下引用》
…われわれは何よりまず心(今のところそれは妄心でしかないのだが)を捕え、それと取り組むことによって心の本源へと帰っていかねばならないのだ。そして、その心(牛)をわずかに捕えたところが第三「見牛」であり、牛が少し姿をのぞかせ、視界に現れた様子が描かれている。

ここで初めて人(私)と牛(心)が実際に出逢い、外に向かっていた姿勢を改め、自分自身と対峙することになるのだが(回光返照)、私もまた心が仮構した観念(五蘊の仮我)に過ぎないから、私の心でもって牛を捕まえる、つまり心でもって心を捕えようとしているのだ。第三「見牛」から第六「騎牛帰家」までに描かれている人・牛・境(自然)のすべては、心(妄心)が造り出したものであることはよく理解しておかなければならない。そして、他ならぬこの心が無始劫来生死の本であり、辿るべきは、この心を除き、その本源(真源)であると深く思いを定めて、ようやく悟りに向け、実践の道を歩み出した端緒が第三「見牛」なのである。…

黄(こう)鸎(おう)枝上 一声声
日暖かに風和して 岸柳青し
只だ此れ更に廻避する処無し
森森(しんしん)たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
《引用終わり》

この世が「自心所現の幻境」ということであれば、見えたと思った頭角は、自分の(心の)影かもしれません。

影を追えば、影も逃げる。同じ速さで。それが自分の影とも知らず、追いかけっこはいつまでも続く。

《つづく》