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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第一 尋牛」を読みました。

《以下引用》
…さて『十牛図』に登場してくる「牛」が心を象徴していることは次第に明らかになっていくと思うが、第一「尋牛」ではまだ牛は姿を見せていない。ということは、この段階でまだ悟りへの道が自らの心を如実に知ること(如実知自心)だということが理解されておらず、どこを捜せばよいのか、その手掛かりも分からず、全く取り付く島もない状態にあることを示している。

忙忙として草をはらう撥(はら)い去(ゆ)いて追尋す
水闊(ひろ)く山遥かにして路(みち)更に深し

どんな人も一度は生の意味は何かと自問自答したことがあるだろう。いや、その意味が分からなくて途方に暮れたことがあるかもしれない。しかし、殆どの人の場合、結局は手近な目的や計画が意味に取って代わられ、今日したいことを自分はするだけ、今日という日は二度と来ないのだからと思ってか、思わずか、深く生の意味を尋ねることもなく、やがて人の生は使い果たされる。そんな恣意的な願望や野心の中に生の意味があるとはとても思えないが、生の意味というか、目的がどこにあるかを説いてきたのが宗教なのだ。宗教の存在意義はここにあり、またそれだけで充分なのだ。しかし、われわれはそれが分からないために忙忙とあれもこれもと試してみるが、本当に覓むべきものが見つからない。ただ精も根も尽きて、独り空しく佇むばかり。

力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処なし
但(た)だ聞く楓樹(ふうじゅ)に晩蝉(ばんせい)の吟ずるを

《引用終わり》

前にも書きましたが、『瞑想の心理学』とこの本は表裏一体という感じです。『瞑想の心理学』ではこの本のテーマである「私とは誰か」が取り上げられたように、『瞑想の心理学』のテーマである「生の意味」が早速この本にも出てきました。

「生きる意味」については、私も以前考えた事をいろいろ書いています。『瞑想の心理学』を読んでいるときにそれまで書いたことをリンク集のようにまとめました『瞑想の心理学』に書かれてある悟りの記述もリンク集のようにまとめました

一望して気付いたのですが、結局は、聖俗両面の見方を身につけ、常に両方の見方で物事を見つめ、思索すべし…ということかと思います。

というのは、たとえ悟ったとしても、そのままこの世でお金を稼いで、おいしいものを食べて生きていくのであれば、二元論的見方もしなければ他の人との遣り取りに不都合が生じてしまうわけで、サンサーラとニルヴァーナの両方を具有し、その場その場で十段変速のギアを切り替えるしかない。十の階梯を順序どおりという時間の観念を排して、場面に応じて、ランダム・アクセスできるようにした方が良い。

そんなことを考えながら、この先、読んでいきたいと思います。

《つづく》