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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「総序」を読みました。

「瞑想の心理学」で述べられていたようなことが多く書かれています。時間に関する件が興味をひきました。

《以下引用》
…われわれが求める究極の真理は時間の中にはない。ということは、時間の中を動いている思考の中にもないということだ。真理はあなたの内なる実存に「本有の真源」としてある。それはかつて在ったし、今も在り、永遠に在り続けるものなのだ。従って真理は、今ここであなた自身が探りをいれるかどうかの問題であって、思考や努力によっていつか実現されるような性質のものでは決してない。もしそうなら永遠の真理が未来に存在するという不合理が生じてくるだろう。…
《引用終わり》

「永遠の真理」なんですから時間に依存するのは確かにおかしい。

《以下引用》
…真源は始まりもなければ終わりもない永遠であるが、あなたが「我在り」と自らを意識したとき、あなたの始まりは真源であり、終わりもまた真源になるということだ。なぜなら真源からさ迷い出たあなたはいつか真源へと帰る(還る)旅を始めることになるからだ。『十牛図』のプロセスの中に「返本還源」が組み込まれているのもそのためだ。…
《引用終わり》

例えば海面に発生した波。これを波動関数として表現することは可能でしょう。当然、時間tというパラメータを含む関数になります。時間tを代入しないと変位xは決まらないという見方をすれば、波はtに依存しています。逆に、時間tが何であってもこの関数は成り立つという見方をすれば、波はtに依存しているとは必ずしも言えなくなります(数学的には依存すると言うのが正しいのだろうが)。

「我在り」の瞬間に時間tが始まるとしても、時間tは我々が通常考えているような振る舞いをしない。ずーっと一定の速さで一定の方向に流れているのではない。悟りに近づくプロセスならば尚更…。

『十牛図』も階梯とはいえ、ただ順番通り見るだけでいいものではないかもしれません。向上門を描いた曼荼羅も向下門として逆に辿る見方がありました。

《つづく》