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「自己認識への道」(法蔵館)
「プロローグ」を読みました。

デルポイの神殿に掲げられた「汝、自らを知れ」が、この本のテーマです。同著者による「瞑想の心理学」では大乗起信論から、その問いへアプローチしていました

この本では、「廓庵の十牛図」と「トマスの福音書」を手掛かりとして、つまり禅とキリスト教の立場から、この問いにアプローチしていくようです。

《以下引用》
…宗教は、ともすれば絶対者(神、仏)の信仰であるかのごとく思われてきた。確かに宗教が信仰で始まるという側面を持っていることは否めない事実であるが、アウグスチヌスも「信仰で始まり、見ることによって完成する」と言ったように、本来宗教は如何にして真理に目覚めるかということを主眼としている。

しかし、何が今のわれわれをして直ちに真理を目睹することを許さないのであろうか。それは真理を求めているわれわれ自身の無知(仏教はそれを「無明」と言う)に原因がある。もちろん、自己を知らなくとも、学問がそうであるように、真理の探求ということはあり得る。しかし、それは宗教がいう真理(真の知識)ではない。後者の場合、その無知ゆえに真理は見えていないという性質のものであり、自らの足元を照らす灯明が消えているために、本当に求むべきものの見分けもつかないまま、手探りで闇の中を探しているようなものなのだ。…
《引用終わり》

学問的な探求、特に科学的な探求がわれわれの中に浸透していくにつれて、宗教的なそれは排除されていったような気がします。それが現代の書物の内容が薄っぺらな感じがする原因だと、私は思っています。「私とは誰か」というような、素朴にして究極的な探求を忌み嫌い、「宗教」と聞いただけで毛嫌いしているが故に、かえって妖しげな新興宗教に対して鼻が利かず、装った仮面を見抜くことができなくなっているということはないでしょうか。

そんな仮面を見破り、巧みな布教を論破するためにも、素朴にして究極的な思索は必要だとは思いますが、それが第一目的ではもちろんありません。

私たちは、毎日、とっても忙しいです。愛する家族の顔をよくみる暇もないほどに忙しく働いている方々はたくさんいると思います。どうして、こんなに忙しくする必要があるのか。素朴にして究極的な疑問を避けて、私たちは、いつまで頑張れるのでしょうか?

科学の中でさえも、私たちは究極的な疑問を避けているように思います。例えば、二酸化炭素の増加を抑えるために電気自動車を開発しているけれども、発電は原子力に頼ることを一向に変えようとしません。二酸化炭素よりも劣化ウランの方がクリーンなのでしょうか?

ひとつ嘘をつくと、嘘の上塗りを繰り返さなければならなくなるように、ひとつの本質から目を背けているが故に、いくつもの本質に目をつぶらざるを得ない状況に追い込まれているような気がします。

ここは逃げないで、「自分」という問題に取り組んでみましょう。

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