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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「止観双修」を読みました。

実践法の解説は、この章に凝縮されているようです。その実践法が止観双修です。

《以下引用》
止とは一切の境界の相を止むるを謂う
観とは因縁生滅の相を分別するを謂う
   (『起信論』95)

…「止」とは「一切の心識の相を止める」(「心識の相」とはわれわれの心の働きを言う)と理解する方がいいだろう。なぜなら、世界はわれわれの心と密接に結びついているのであるから、われわれは直接世界に働きかけるのではなく、自分の心(妄心)に働きかけることによって、一切の境界(の相)を止めることが可能になるからだ。
《引用終わり》

しかし、「止」だけでは心は重く沈み、眠りこけてしまうので、「観」が必要になる。

《以下引用》
復次に、若し人にして唯止のみを修するときは、則ち心は沈没し、或は懈怠(けだい)を起し、衆善を楽(ねが)わずして、大悲を遠離せん。是の故に、観をも修すべし。
   (『起信論』103)

…「観」とは「因縁生滅の相を分別する」とあるが、それはわれわれの外側だけではなく、内側で起こっているすべての事物・事象(因縁生滅の相)を深く観察し、存在の本質を洞察する智恵を養うことである。誤解してならないのは、「分別」という言葉を、そのまま是非・善悪などを判断(分別)すると理解してはならないことだ。…

従って、妄りに分別する心を止め(シャマタ)、われわれの内と外で起こるすべての事物・事象に批判を加えるのではなく、ただ見つめ、観察することによって(ヴィパシャナー)、見るもの(主)と見られるもの(客)という主客の二元論を解消し、一元性の世界…へと帰っていくというのが止観(シャマタ・ヴィパシャナー)の大方の道筋である…
《引用終わり》

心を静かにするためには、呼吸法も有効な手段です。しかし、最終的には呼吸法に依存してはいけないようです。

《以下引用》
『起信論』は「若し止を修せんとせば、静処に住し、端坐して意を正し、気息にも依らず」と言い、呼吸法(気息)を用いるのではないという。…確かに呼吸法は瞑想状態(三昧)に入る有効な手段であり、この入息と出息の二つに心を留める練習は必要であるが、その心が実は、心源の不覚によって生じた妄心であるから、いつかその心さえも除かなければ本当のサマーディに入っていくことはできない…呼吸に心を留めることも放棄しなければならないときが来るということだ。
《引用終わり》

そして、呼吸について上述したことは、心についても言える。

《以下引用》
一切の諸想を念に随って皆除き、亦除想をも遣れ
   (『起信論』95)

瞑想(止観双修)の始めは、どんな心が起こってこようとも、その心に善し悪しの判断を下すこともなく観察し、見守っていなければならないが、いずれ観察している心(主)をも除かなければならない時が来る。そして、妄りに起こる心(客)を観察し、除くことはそれほど難しくはないが、観察している心(主)をも除いて、本当の無心になることはとても難しい。
《引用終わり》

以前も止観の方法を岩波文庫版を基にまとめましたが、この本(「瞑想の心理学」)の方が分かりやすいようです。

《つづく》