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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「瞑想の心理学」を読みました。

今回は本のタイトルと同じ章ですので、これまでのことがギッシリまとめてあります。

《以下引用》
心は美しい夢から悪夢までどんな夢をも作り出し、その実現に向けてわれわれはこれまで多大のエネルギーを注いできた。が、われわれが目にしているあらゆる現実は、個人から国家に至るまで、もとはと言えば、われわれの心を一瞬掠めた思考(想念)にほかならない。そして、心はその心にとってのみ意味のある世界をいくらでも作り出しているが、それらはいずれも、本源から紡ぎ出された心像(幻境)に過ぎない(自心所現の幻境)。この良くも悪くも現実という夢を生み出しているのは心(思考)であり、心が存続する限り、われわれ人間はそれが夢(大夢)であることに気づくこともなく、またどこに向かおうとしているかも分からないまま、共同幻想の夢を追い、その結果、悲喜劇は果てしなく繰り返されることになる。そして、この夢から目醒めることを説いたのがほかならぬ宗教なのだ。
《引用終わり》

仏教は悟りの、あるいは成仏の宗教と言われ、そのためには修行、特に苦行のイメージが一般的には強いかもしれませんが、どうなのでしょう。そもそも、苦行では悟れない!というのが、ブッダが独自に模索を始めた出発点のはず。

《以下引用》
仏に成るというと、どうしてもわれわれが日常生活の中で何か目標を設定し、それに向けて努力した結果、常に成功と失敗が問われるようなものと同じレベルで考えられがちであるが、悟り(成仏)の体験は因果成敗というような二元対立の彼方にある
《引用終わり》

しかも、われわれ衆生は本来仏であり、自らの本性に全てを具えているというのが『起信論』の考え方です。ですから、このうえ修行し、努力し、功徳を積み上げて、仏に成るという問題ではないのです。

《以下引用》
まず、明確にしておかねばならないのは、われわれは自分の意志や努力によって仏になるのではないということだ。なぜなら、仏に成ろうとしているのは、実はわれわれ自身の心(妄心)であり、そこからは妄境界(生死の世界)しか現れてこない。そんな心でもって仏に成ろうとしても金輪際ありえないし、生死を超えることも叶わない。というのも、その心が真理を覆うヴェールになっているから、心はいつかどこかで消え去らねばならないのだ。
《引用終わり》

さて、心を消し去るにはどうしたらいいか。思考(心)が具体的なイメージとなって、一定の方向に定まると、その実現のためにわれわれは努力を惜しまないが、思考も心ならば、その実現に向けて努力するのも同じ心である。そして、思考と思考するものの間にある見せかけのギャップに欺かれ、思考を追い求めていくことが欲望である。

走り続けている間は生き甲斐を感じることができても、立ち止まり、リタイアした途端に行き場をなくし、心をどう扱えばいいか分からなくなる。心は何か目的を持ち、何かをしていないと落ち着かないのだ。何もすることがなければ、退屈さのあまり、心は唯一の避難場所である眠りへと滑りこむ。

《以下引用》
従って、瞑想とは、しばらく走るのを止め、その流れから一歩脇に退いて、心にこれ以上エネルギーを注がないことだ。
《引用終わり》

悟りとは、心を消し去ること。ゆえに、悟ろうという目標設定さえ、心にエネルギーを与えることになるから、やってはいけない…。これを私、「悟りのパラドクス」と呼びたいと思います。

勝つと思うな、思えば負けよ♪みたいな考え方は、ここから来てるのかもしれません。

《つづく》