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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「大夢と大覚」を読みました。

今回は「胡蝶の夢」の荘子からの引用。

《以下引用》
その夢見るにあたりては、その夢なるを知らざるなり。夢の中に、またその夢を占う。覚めて後に、その夢なるを知る。かつ大覚ありて、しかる後に、これその大夢なるを知るなり。(『荘子』〈斉物論篇〉)
《引用終わり》

妄心が描く現実を「大夢」と呼び、これから覚めることを「大覚」と呼んでいます。良寛は、われわれの目覚めた状態も夢のようだと言いました。ヴェーダーンタの哲学では「目覚めは夢の延長に過ぎない」と言っています。

《以下引用》
哀なるかな、哀なるかな、長眠(ちょうめん)の子(し)。苦なるかな、痛なるかな、狂酔の人。痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。(空海『般若心経秘鍵』)
《引用終わり》

われわれの世界は共同幻想の世界(大夢)であると言ったところで、酔っ払いが素面の人間に食ってかかるように、それこそ戯言ではないかと笑って取り合わないでしょう。それでも宗教における方法論とは、この夢(大夢)を見ている最中に、それが夢だと気づく術を教えようということなのです。

《つづく》