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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「二つの死」を読みました。

《以下引用》
…瞑想のプロセスの中には、仮我が死して真我に蘇る一瞬があるのだ。この死を通して私たちは初めて無我ということを体験的に知り、また真我(本来の面目)をも覚ることになる。絶後に再び蘇る死を、われわれの誰もがいずれは行き着く肉体の死と区別して、禅は「大死一番」という。何が死ぬのかというと仮我であり、何に蘇るのかというと真我であり、何になるのかというと仏である。なぜなら、真我は仏にほかならないからだ。
《引用終わり》

仮我真我があり、仮我を消し去って真我を覚ることが仏教の目的ということになります。

《以下引用》
無我の思想は、釈尊の洞察として、恐らく世界の思想史においても最も注目すべきものであり、今後われわれが人間というものを、根本的に問い直す場合の鍵概念として、再度歴史の表舞台に登場してこなければ、今日の社会の混乱と狂態はますますその度合いを深めるばかりか、個々の人間が内に抱えている存在の空虚さと矛盾は一向に解決されないだろう。というのも、自己愛(エゴイズム)、あるいは組織エゴ(ノスイズム)を剥き出しにしながら、個人から国家に至るまで、保身と面子のためにわれわれは徒に混乱しているからだ。簡単に言えば、人間は仮我のままで良いのかということだ。「私とは誰か」という人間の根本問題が、人間はこのままで良いのかという刺激的な問いになるだろうと言った私の真意はここにある。
《引用終わり》

筆者が最も重要と考えているものが、ここにまとめられていると思います。

「二つの死」という考え方はイスラーム教の中にもあるそうなので、それを引用しておきます。

《以下引用》
死ぬ前に死になさい、死の苦しみを味わわないために。
光へと通じる死がある、墓の中に入るような死ではない。
       (ナスル『イスラーム芸術と霊性』)
《引用終わり》

《つづく》