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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「自己認識」を読みました。

主客の二元論的認識構造の中で、知識や経験を積み人から認められるようになったとしても、それは認識の対象(客)に当てはまる部分であって、認識の主体(主)であるあなた自身とは別の問題である。

《以下引用》
それはちょうど、たくさんのデータを詰め込まれたコンピューターが自分のことを知らないのに似ている。もちろんコンピューターがそれを知らなくとも一向に差し支えないし、またその必要もない。しかし、われわれ人間の場合は違う。たくさんの知識と経験を詰め込んでいる自分とは一体何ものかを知らない人を、私は何のためらいもなく無知と言う。
《引用終わり》

シュレーディンガーが同様の指摘をしている文章が本書に引用してあります。本当の「私」とは、メモリーに収められたデータではなくて、メモリーの方ではないか?という指摘です。

《以下引用》
シュレーディンガーの卓見とも言える「私」の理解の中に、経験や知識を収めたデータとしての私と、データを書き込む共通の基盤としての私の二つを見て取ることができる。そして前者について言えば、確かに経験や記憶はデータとして、私という個性を作り上げ、われわれはいつしかそれを自分と考えるようになる。しかし、それはあなたの出自から始まって、これまで受けてきた教育や知識はもとより、あなたの趣味・嗜好や性格、社会的立場など、雑多なデータを寄せ集めた記憶の総和に、われわれが「私」という呼称を与えたに過ぎず、そこに一貫した私が存在しているわけではない。
《引用終わり》

現実の世界では友人と一緒に何かをします。つまり経験を共有(シェア)します。その経験や記憶の単なる集合体が「その人」と言えそうな感じさえします。例えば、夫婦とか家族とか、「その人」を家族だな…と強く実感できる瞬間のひとつは思い出話(シェアしている経験の確認作業)をしている時ではないでしょうか。

最近、SNSで自分が興味を持った情報をシェアしたり、リツイートしたりしています。自分の友人が「いいね!」とマークした情報を見て、「らしいな」と思ったりする。この「いいね!」の集合体を「その人」そのものと言っていいように思うことさえあります。

しかし、これらの情報群は、「その人」だけのものではないことは留意すべきかもしれません(シェアという形で他の人も持っているわけですから)。「その人」と言えるものは、その情報の集合体の方ではなく、それが乗っかっている場所の方だということなのでしょう。

SNSの喩えで言えば、乗っかっている場所の境界は、サーバーのメモリー上のアドレスであり、ダイナミックに変わり得る、ある意味あやふやなものです。この点は、自他不二を考える時に使えるかもしれません。

《つづく》