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「現代ソフィスト伝」の第二部「二、学力の実態を見る」の「2、実力がついていない(1963〜1968)」を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用》
公の最初の五年間は、一つの言葉、すなわち、基礎学力という言葉の周囲をめぐる実践であった。
《引用終わり》

この時期、公さんは、自分の教材を「一定の学力に達するのに必要な内容とそれに要する時間を示すもの」と言い切っているそうです。

《以下引用》
…自分が毅につくった教材はたった一枚のルーズリーフである。毎晩、学校から帰って、夜、毅の出来具合を見て、次の一枚をつくっている。×が多くかさなれば、さらに細かく復習を加え、×が1〜2個で自己訂正ができるようなら予習の分を増やしてステップを大きくする。だから、結果的に、課題ごとに要した教材の枚数が、すなわち、生徒が学ぶに必要な時間になる。…

これに比べると、学校で決められた授業時数は、生徒に勉強させる時間のことであって、生徒が学ぶために必要とする時間ではないと、公は言っているのだ。学校の授業のカリキュラムを見ても、これが学力を高める必要量だとは、だれも思わない。学校は一斉に教える形をとっている。だから、教えるのに必要な時間はわかっても、学ぶのに要する時間という考え方が初めからとれないのだ。
《引用終わり》

「教育は子どものため」と言いながら、カリキュラムは子どもの側には立っていないようです。

《以下引用》
…同じ年齢の子どもだから同じことを学習させるということは、各人の素質は一様ではないので各個人にとっては不自然にきまっています。学校ではやむを得ずそうきめてあるので、学力を伸ばすには能力があるなら学校の内容を越えてゆく勉強をさせることです。芸術、スポーツ方面での修業は能力に応じて年齢に関係せずに進ませるのです。数学の家庭学習においても、当然これと同じ学習法がとられるべきです。学校と同じように進むことを強制するのは、基本学科の学習を軽視するものと言わねばなりません。(『山彦13』1965)

幼稚園児には音感教育とか図画教育など、さかんに行われているではないか。これは情操にかかわるものだから、幼児にはふさわしいという。しかし、子どもにムリのない方法なら、基礎学力もまたこうした教育の一つになる。ベートーベンのピアノ・ソナタを弾くために、教則本を練習してその目的を達している例は多いはずである。公の教材は、高校数学の基礎をそのまま教材にしたバイエルである。ピアノでゆるされて、数学でゆるされない法はない。
《引用終わり》

これが発展して、「国数英は技能教科」という主張につながっていくのかもしれません。

《つづく》