「瞑想の心理学」(法蔵館)
第三章「存在論―返本還源」の「『般若心経』のマントラ」を読みました。
《以下引用》
世間の凡夫は諸法の本源を観ぜざるが故に、妄に生ありと見る。所以に生死の流れに随って自ら出づること能はず。(空海『吽字義』)
人間は「諸法の本源」を見て取れないために、妄りに生(と死)があると思い、死はできる限り遠ざけ、生にはどこまでも執着する。これはいずれも不覚無用から生じてきた妄念、あるいは妄執に過ぎないが、それがためにわれわれは生死の流れから離れられないのだと空海は言う。
《引用終わり》
前回までの内容を御大師様にまとめていただいたという感じです。そして般若心経のマントラです。
《以下引用》
gate gate paragate parasamgate bohdi svaha
このマントラを空海は自らの悟りの体験に照らして次のように理解した。
行行として円寂に至り
去去として原初に入る
三界は客舎の如し
一心はこれ本居(ほんこ)なり
(空海『般若心経秘鍵』)
心の本源(一心)は、もとより静寂で至福に満ちている。何ら欠けるものはない(円寂)。いつも変わらずそうなのだ。ところが、われわれは本源に背いて、いま生死の苦海に身を沈め、長者窮子の譬えの如く、火宅無常の世界をあくせくと駆けずり、あれこれと求めはするが、死に急ぐものに本当に落ち着ける安らぎの場所などどこにもない。なぜなら、この世は仮の住まい(三界は客舎)であって、われわれが本当にあるべきところではないからだ。あなたは気づいていないけれども、帰るべき本当の住処はあなた自身の内なる本源(原初)にある。心の本源こそわれわれの本当の住処であるというので、「一心はこれ本居なり」と彼は言ったのだ。
…だからあなたはどこに赴くこともない、ただ心の内側へと深く、より深くへと入り、あなたの実存の中核である本源(一心)に辿り着きさえすればそれでいいのだ。そこがあなたの永遠の故郷であり、真に安らぐ涅槃の都であるから、というのが空海のマントラ理解なのだ。
《引用終わり》
本文中に「…マントラである限り、漢訳で誦することにどれだけの意味があるか…」という記述があります。これは興味深い指摘です。真言にこだわった空海の気持ちに通じるものがあるんじゃないかと思います。
宗教という部分を離れて考えてみても、インド哲学とかインド文学を勉強しようという時に、日本人が漢訳の文献を用いるというのは奇妙な話です。日本語訳で最初は勉強するにしても、最終的には原文で読めなければ、微妙なニュアンスは理解できないはず。
千数百年も前の人なのに、国際都市長安に渡り、中国語を自在に操り、サンスクリット語も解する…そういう超人だからこそ気づくことかもしれませんが、考えてみれば当たり前のことです。「真言宗」という命名に、改めて重みを感じます。
《つづく》
第三章「存在論―返本還源」の「『般若心経』のマントラ」を読みました。
《以下引用》
世間の凡夫は諸法の本源を観ぜざるが故に、妄に生ありと見る。所以に生死の流れに随って自ら出づること能はず。(空海『吽字義』)
人間は「諸法の本源」を見て取れないために、妄りに生(と死)があると思い、死はできる限り遠ざけ、生にはどこまでも執着する。これはいずれも不覚無用から生じてきた妄念、あるいは妄執に過ぎないが、それがためにわれわれは生死の流れから離れられないのだと空海は言う。
《引用終わり》
前回までの内容を御大師様にまとめていただいたという感じです。そして般若心経のマントラです。
《以下引用》
gate gate paragate parasamgate bohdi svaha
このマントラを空海は自らの悟りの体験に照らして次のように理解した。
行行として円寂に至り
去去として原初に入る
三界は客舎の如し
一心はこれ本居(ほんこ)なり
(空海『般若心経秘鍵』)
心の本源(一心)は、もとより静寂で至福に満ちている。何ら欠けるものはない(円寂)。いつも変わらずそうなのだ。ところが、われわれは本源に背いて、いま生死の苦海に身を沈め、長者窮子の譬えの如く、火宅無常の世界をあくせくと駆けずり、あれこれと求めはするが、死に急ぐものに本当に落ち着ける安らぎの場所などどこにもない。なぜなら、この世は仮の住まい(三界は客舎)であって、われわれが本当にあるべきところではないからだ。あなたは気づいていないけれども、帰るべき本当の住処はあなた自身の内なる本源(原初)にある。心の本源こそわれわれの本当の住処であるというので、「一心はこれ本居なり」と彼は言ったのだ。
…だからあなたはどこに赴くこともない、ただ心の内側へと深く、より深くへと入り、あなたの実存の中核である本源(一心)に辿り着きさえすればそれでいいのだ。そこがあなたの永遠の故郷であり、真に安らぐ涅槃の都であるから、というのが空海のマントラ理解なのだ。
《引用終わり》
本文中に「…マントラである限り、漢訳で誦することにどれだけの意味があるか…」という記述があります。これは興味深い指摘です。真言にこだわった空海の気持ちに通じるものがあるんじゃないかと思います。
宗教という部分を離れて考えてみても、インド哲学とかインド文学を勉強しようという時に、日本人が漢訳の文献を用いるというのは奇妙な話です。日本語訳で最初は勉強するにしても、最終的には原文で読めなければ、微妙なニュアンスは理解できないはず。
千数百年も前の人なのに、国際都市長安に渡り、中国語を自在に操り、サンスクリット語も解する…そういう超人だからこそ気づくことかもしれませんが、考えてみれば当たり前のことです。「真言宗」という命名に、改めて重みを感じます。
《つづく》
コメント
コメント一覧 (4)
実は可藤先生の本のアルファベット表記を書写してから、そんな感じに発音してみる癖がつきました。娘たちにとってはお婆ちゃん(私の義母)の般若心経が標準になっているので、「パパは下手だ」ということになってます。
水波坊さんに丁寧に書いていただきましたので、ますます下手になりそうです(笑)
たとえば般若心経であれば、
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
gate gate paaragate paarasamgate bodhi svaahaa,
普段、行としておこなう場合には訛音でも構いませんが、ただ、これら真言の正確な意味を知るためには、サンスクリットを検討する必要はあるでしょう。
正確な知識の裏付けがない、たんなる「呪文」に堕してしまうと、それはそれで仏教ではなくなると私は思っています(ですから慈雲尊者は日本の梵語文献だけを頼りにして、大変な苦労をしてサンスクリット文法を再現したわけですが、それでも実践的には訛音で誦していたはずです。弘法大師も当然)。
いずれにしても、「ぎゃーてい」が「往く」であるという知識と、「ガテー」が「往く」であるという知識の間には、宗教的には違いはないでしょう。正しくその指し示すものを理解しているわけですから。
そしてどのみち、いずれそういう「理解」から離脱していかないと、意味ないわけですしね…。
空海は、般若心経の漢訳を行った般若三蔵と親交があったと聞いています。だから、翻訳の際の苦労談なども聞いているだろうと思います。そんなホットな時代・場面ではサンスクリット語の理解も重要だっただろうな…というミーハー的な気持ちが私の中にはあります。今日的に言うなら、欧州とも異なる言語圏から重要な新理論が発表されて、それを英語訳しようと苦心惨憺しているような状況だと思うのです。この二人の間で交わされた会話はどんなものだったでしょうか…
意味を解することが重要であり、漢語訛り日本語訛りで唱えても全く問題がないという考え方には賛成なのですが、毎日「ギャーテーギャーテー」と唱えておりますと、本当の発音はどうなんだろう?と思いますし、できたら原音に近い発音で唱えたいとも思うのです。更には、御大師様の声に似せたいとか、般若三蔵のように…とか。録音テープが残ってる筈もなく、絶対に不可能なわけですが。このように、個人に思い入れすることは、自他不二の仏教からすれば本質からズレルことだろうと自戒しているところです。
特定の文字や特定の音素に固執し珍重するのも、大乗仏教としては本質からズレルような気がします。ただ、悟りの境地に近づくためのキーワードは有った方がいいし、それがマントラだったり念仏だったり御題目であったりするんだろうと思います。そして、より神妙に唱えようとすると、サンスクリットの発音はどうなんだ?とまた最初に戻ってしまう(笑)
そんなちょっとした葛藤が日頃ありまして、可藤先生の言葉にも引っかかったのだと思います。可藤先生はどう考えているんでしょうね。本書のこの箇所では言及を避けているのですが。
もちろん学問的に論文でも書くのなら原典は必要ですが、仏教の目的は学問ではないので、本来の目的ということであれば、漢訳で十分です。過去、漢訳だけで素晴らしい実践をしてきた中国・日本の仏教者もおられたわけですし、その蓄積を一覧するだけでも、このことは確信できます。
一方、真言が中国風に訛ってて大丈夫か(おんあぼきゃべいろしゃのう〜〜とか)、あるいは漢訳で良いのか(南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とか)という指摘は以前から多々ありますが、これも私は問題ないと言う立場です。
私はバラモン教におけるような音素そのものに力があるという立場ではなく、あくまでもマントラは「シャマタ(止)」のためであり、観想の手段のひとつですから、音素よりは意味、意味よりは観想と結合していること自体が大切だと考えています。
弘法大師もそうだと思います。真言にしても、原音そのままでないことは弘法大師も理解していたでしょうから。
どうも仏教関係者でも、「真言」に関してバラモン・ヒンドゥーにおける文字崇拝・音素崇拝を引きずり過ぎていると私は思っているのですが…。