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「現代ソフィスト伝」の第一部の「二、聖なる砦としての学校」を読みました。(小林教室収蔵

公文公が創始した公文式学習法は彼の完全なオリジナルではなく、御手本となるものがありました。それが、土佐において彼が受けた教育だったようです。自分の体験をもとにして、公文式は創られたということです。

例えば、「手を上げる授業」への疑問。
《以下引用》
なぜ手をあげなければならないのか。「はい」「はい」という生徒の声がひびかないと、教室じゃないと思っている教師がいる。学校というところは、いつも「先生」のために勉強しているようなところだ。教師に向かって勉強しているわけではないのに、なぜか、そうなる。机間巡視とかいって、警官のように見回る教師までいる。

しかし、生徒の頭のなかは、いろいろな言葉が縦横無尽にとびかい、さまざまな考えをつむいでいる。もし、こうだとすると、この場合はどうなるだろうか。これとこれは結びついて、こう考えることもできる。言葉が言葉をよび、収拾がとれない。とれないところが、また、おもしろい。つかの間の興味から、まったく新しいつながりの筋が通ったときの喜び。これがおもしろいのに、考え事をゆるさない授業とは、いったい、だれのためにあるのか。
《引用終わり》

公が学んだ下知小学校の四年の時の担任の先生は「算術の教科書ができるなら、いくら先をやってもよろしい。先に進んで、わからないことが出てきたら、一人ずつ教えるから聞きにきなさい」と言う方でした。つまり「手を上げる授業」ではありませんでした。

公が入学した土佐中学は地元の富豪が創設した学校で、斬新な教育がなされました。初代校長の三根円次郎はディック・ミネの父(これは教育には全く関係ないが)。ここでの授業も下知小学校と全く同じ。最初に基本的なことを教えるだけで、あとは問題集を生徒に与えて解かせる。わからないところがあると、教壇の椅子にすわっている先生に質問する。わかったら、席にもどって、また、学習を続ける。

当時から地元でも、この授業形式にはかなりの批判があったようです。それでも、敢えて行っていたのは、それだけ成果があったからだと思われます。

《以下引用》
わたしたちは、今、教育に関して、臆病になっているのだろうか。…土佐の教育は昔話にしかすぎないと思って、ここから学ぶことをしない。土佐のエリート教育は、大正のあの時代であったから、実行に移せたのであって、現代とは条件も事情もまったくちがうと考えてしまう。

わたしたちは、また一方で、ずいぶん非寛容になってしまっている。自分なりの学び方を至上として、なかなか他のやり方に学ぶことをしない。やり方を変えるにも相当なエネルギーをつかう。今のままの方が安全だし、ラクだと思う。

それにしても、英才教育には、現代の教育に失われて久しい教育の一つの本質があった、と言うべきではないだろうか。英才を創る、こういうと、傲慢に聞こえるかもしれないが、しかし、ふつうの子どもを優秀にする、この確信は教育のなかでももっともピュアーなものではないか。できない子をできるようにしてあげたい、これに勝る教育への期待はあるのか。
《引用終わり》

で、おそらく公文の指導者なら何度も目にするはずの「下手(蔕:へた)なりに固まってしまうつるし柿」の一節。『山彦90』1985からの引用(つまり公文公自身の文章)を、引用します。

《以下引用》
公文の指導者と学校の先生との一番の大きな違いは、私たちは「この子はどこまで伸びるであろう」という楽しみをもって子どもに接していけることです。たとえば、1+1=ができない小学五年生の特殊学級の子どもでも、「どれだけ伸びていくだろう」という楽しみをもって、その子にちょうどの学習を進めることができます。幼児で分数をやっているような子どもにも、全く同じ喜びをもって接することができます。私たちが「つるし柿」にならないですむのは、こういう楽しみをもつことで子どもを伸ばす努力をすることで私たち自身が伸びていけるからではないでしょうか。学校の先生は、「その子にちょうどのことをしたい」と思ってもなかなかできません。できる限界があります。そのため自分自身が燃えていける場がないので、最初のうちは燃えていても、子どもは思うように伸ばせないので、「子どもとはこんなものだ、しかたがない、自分なりにやれるだけやったのだから」と自分に言い聞かせ、だんだんとさめていくのではないでしょうか。
《引用終わり》

公文の教室では、「おもしろくて仕方がない、プリントを何枚でもしたい」という状態の子を見かけることがあります。もちろん、いつでもこの絶好調状態では無くて、この子にもスランプはあります。ただ、子どもというのは、その子ごとに、猛烈に走り出したくなったり、立ち止まりたくなったり、後戻りしたくなったりすることがあるのです。

そのタイミングが皆同時であるはずは、絶対にありません。

それなのに、なぜ、軍隊の行進でもするかのように皆と同じに進まなければいけないのでしょうか。スランプで足が動かない子どもに、どうして皆と同じ歩調を強いるのでしょうか。今走らせれば、あっという間に先まで進んでしまう子どもに、どうして皆と同じ歩調を強いるのでしょうか。

子どもの可能性が、そして貴重な時間が損なわれていくようで、勿体なくて仕方がありません。

《つづく》