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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第二章「現象論―三界唯心」の「見色即見心」を読みました。

心というプロジェクターに映し出されたバーチャルな現実を見る仕組みとは…

《以下引用》
心が捉えた虚妄の世界を、われわれは実際どのように経験していくのだろうか。…

…心源を覚ることができないと忽然と不覚の心が起こり、心は三界生死の世界を捉え始める。心を離れて世界はなく、世界を離れて心はないが、その心は具体的には、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識に分かれ、それぞれ色・声・香・味・触・法の対象(六塵)を捉え始めるのだ。つまり、われわれの心というものは六識に分かれ、眼は色(物)を捉えるように、それぞれ「六塵の境界」を捉えるようになる。これら六識を通して経験するすべてが虚妄、すなわち不覚の相であるということで「六塵」と表されている。換言すれば、これら六識を通して真理は見えてこないということだ。
《引用終わり》

六識では真理が見えないとすれば、たとえば目が不自由な方を身障者といい、handicapped と言いますが、健常者こそハンデを負っているとも言えます。

私たちが見ている(眼識の場合)ものは何でしょうか?そこで馬祖の「見色即見心」が出てきます。

《以下引用》
およそ見るところの色(物)は、皆是れ心を見るなり。心は自ら心ならず、色によるが故に心なり。色は自ら色ならず、心によるが故に色なり。故に経に云く、色を見るは即ち是れ心を見るなり。(『馬祖語録』)

われわれが主客の認識構造の中で何かを見るという場合、実は自分自身の心を見ているのだと彼は言う。なぜかというと、「三細」の説明からも分かるように、主客に分けているのはわれわれ自身の心であり、われわれの心(不覚妄心)が、見るもの(主)と見られるもの(客)の二つに分かれたのであるから、何かを見るということは、われわれ自身の心が投影した映像を見ていることになる。そうして「心は自ら心ならず、色(物)に依るが故に心なり。色は自ら色ならず、心に依るが故に色なり」と言って、心・物が相互に切り離せないものであるから「色を見るとは即ち心を見るなり」と言ったと考えられる。

…『起信論』は「一切の分別は即ち自心を分別するのみ」と言う。
《引用終わり》

主客の境界線上に、私の心はある…

《つづく》