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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第二章「現象論―三界唯心」の「仏教の世界観」を読みました。

《以下引用》
仏教の世界観を論じる場合、しばしば取り上げられるものに「三界唯心」という考え方がある。われわれが存在する経験世界を三界と呼び、それには欲界、色界、無色界という三つがあると言う。そして現在われわれは、欲望の世界(欲界)を生きている。

デカルト哲学に代表される二元論的な世界観は、私と世界とを分離し、世界は客観的に存在しているのであるから、客観的に記述可能であるとみるが、仏教が世界を考える場合、経験するわれわれ主体の側も含めて理解していく。言い換えれば、世界はそれだけで存在しているのではなく、外的に存在すると見られる客観世界も、見る主体の心と密接に結びついているということで「三界唯心」と熟語されるところに大きな特徴がある。
《引用終わり》

そんな虚妄の世界で生きる意味とは…

《以下引用》
例えば、人が時に存在の虚しさを感じ、生まれてきた意味が分からなくなるとしても、それはさほど不思議なことではない。というのも、われわれの生(と死)が、われわれ自身の心(妄心)に原因があり、その心でもって生の意味を知ろうとすることは、一度火のついた油が自分に対し、なぜおまえは燃え続けるのかと問いかけるようなものなのだ。生は何か目的を達成するために存在しているのではなく、生それ自身の中に存在の意味を見出せない限り、われわれにとって生はいつまでも不可解な謎として残るだろう。

事実、現在のわれわれは生の意味も分からないまま、ただ燃え尽きるまで、ひたすら闇雲に走り続けているだけなのだ。もちろん、走っている間は、手近な目的が生の意味に取って代わられ、そんな面倒な問いに悩まされることもなく、その道で少しばかり名前でも知られるようになれば、存在の虚しさを感じることもないかもしれないが、それはあなたが生の意味を知ったことにはならない。
《引用終わり》

これは、私が漠然と持っている答えのゾーンのどまんなか・ストレートです。これを機に、これまで私が書いたものを検索に引っかかったものだけまとめておきたいと思います。

〔2006.01.08〕老いて、病気をして、死ぬだけの自分に、生きる意味はあるのか?

〔2008.06.07〕精一杯生きて寿命を全うした時に初めて意味はできる。

〔2008.08.25〕生きるとは、「何(what)をしたか?」ではなくて、「いかに(how)生きたか?」ではないだろうか。

〔2009.06.23〕生きる意味なんて無いのかもしれない。でも、あると思った方がいいんじゃないか。←これは、上記引用の「走っている間は、手近な目的が生の意味に取って代わられ、そんな面倒な問いに悩まされることもなく、その道で少しばかり名前でも知られるようになれば、存在の虚しさを感じることもないかもしれない」のことですね。

そこで、取りあえずの手近な目的を見つけようとした時…
〔2009.06.29〕現代は自由であるがゆえに、かえってその目的(意味)が見つかりにくいのではないか。

〔2011.01.20〕幸い、子どもができた上に生活も苦しいので、私の場合はその目的(意味)があることになる。

財布の虚しさゆえ、存在の虚しさを感じる暇もないけれども、それで私が生の意味を知っていることにはならない!

《つづく》