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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第一章「認識論―不覚無明」の「無明の忽然念起」を読みました。

《以下引用》
…では、無明はいつ始まったのであろうか。言い換えれば、われわれは不生不滅の永遠の世界から生滅する時間の世界に、いつ退転してきたのかということだ。

…それは、心源の不覚とともに時間は始まったと理解することで解決される。つまり、不生不滅の永遠の世界から生滅する時間の世界にわれわれが入ったそこは、いわば「始源の裂け目」であり、われわれは無時間の世界から時間の世界に入ったということだ。そして、心源の不覚によって生じた心(妄心)が時間を紡ぎだしていると見るのだ。

…無明には始まりがなく、しかも原因なくして起こってくるところを『起信論』は「忽然」と言い、無明は時間の中で起こったのではなく、時間とともに始まったということで「無明の忽然念起」と言ったのかもしれない。
《引用終わり》

この『起信論』の説明は、SF的な雰囲気があって素敵です。

相対論の最も衝撃的だった点のひとつは、時間さえも相対的であると指摘した点だと思います。物体の運動の仕方で時間の進み方は違う。重力の強弱でも時間の進み方は違う。

時間の進みを早く感じたり遅く感じたり、というのは完全に自分の錯覚だと思っていましたが、時間そのものも歩みを早めたり遅らせたりすることがある…。

『起信論』では、時そのものが妄心によって生じるという。

「忽然」は仏教用語としては「こつねん」と読むようです。

《つづく》