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「意識と本質―精神的東洋を索めて」(岩波文庫)
「意識と本質 3」を読みました。

前回、「本質」と名詞の関係について私なりに指摘しましたが、この章で以下のような記述を見つけて嬉しくなりました。

《以下引用》
…一般者としての「本質」はコトバ、すなわち物の名、ときわめて親密に結び付いている。この点に関しては、人が「本質」の実在性を肯定するにしても否定するにしても、事態は根本的には変わらない。ただ、否定の場合は、コトバが原則として「本質」喚起的に働くのに反して、肯定の場合は、「本質」指示的に働くとされるだけの違いである。例えば「花」という名は、本当は実在しない花の「本質」を妄想的に喚起する。虚空に喚起されたこの仮構の「本質」を、否定論者(例えば仏教思想家)は、外的実在に根拠をもたないものとしてただちに払い棄てる。反対に肯定論者(例えばニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派)にとっては、「花」という語は実在する花の実在する「本質」を指示するのである。
《引用終わり》

これから「本質」肯定論を3つの型に分類して見ていきます。

第一の型は、普遍的「本質」(マーヒーヤ)は、物の表層しか見えない日常的意識ではなく、非日常的な意識、深層意識によって把握されるというもの。宋学の「格物窮理」が典型的。

第二の型は、前者同様に深層的事態に関わるが、その体験的に生起する場所はシャマニズムや或る種の神秘主義を特徴づける根源的イマージュの世界であるというもの。イブン・アラビーの「有無中道の実在」、スフラワルディーの「光の天使」、易の六十四卦、密教のマンダラ、ユダヤ教神秘主義カッバーラーの「セフィーロート」など。

第三の型は、第一の型が深層意識的体験によって捉える普遍的「本質」を、意識の表層で理知的に認知するところに成立する。古代中国の儒学、古代インドのニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派特有の存在範疇論など。

これまで私が勉強してきた大乗仏教は「本質」否定論の代表格のようですので、それとは逆の理論を見ていくことになります。楽しみです。

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