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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「衆生の意味」を読みました。

《以下引用》
仏教はわれわれ人間を衆生(あるいは凡夫)と呼ぶが、衆生とはどういう意味であろうか。…
《引用終わり》

ということで、まず『正法眼蔵随聞記』から道元の意見が引用されています。

《以下引用》
われわれ人間は始めとて分からない遠い過去から、いくたびか徒に生まれ、徒に死を繰り返して来たということで「広劫多生」であり、従って、衆生とは衆多の生、つまり何度も生と死を繰り返しているものという意味である。…

たまたま人間として生まれたのであるから、この機会を捉え、此岸(サンサーラ)から彼岸(ニルヴァーナ)へと渡っていきなさい。そうでなければ、再びこのような機会が訪れるまでにあなたはどれほど空しく生と死を繰り返すことになるか、あなた自身にも分からないのだから…
《引用終わり》

親鸞も『高僧和讃』の中で、「広劫多生」と言い、師法然に出会えなかったら彼岸へ渡る術を知らなかったと言っているそうです。つまり、二人は衆生について同じ理解をしていました。

空海は『念持真言理観啓白文』の中で、面白い指摘をしています。
《以下引用》
…われわれ衆生は迷っているが故に次々と多くの衆生を生み出し、一方、諸仏は覚って一仏となる。言い換えると、衆生は一から多へ、諸仏は多から一へと全く方向が逆になっている…
《引用終わり》

「人間に生まれたこの機会に悟りましょう!」と言われると、なるほどと思いますね。少なくとも、「人間しかできないことを存分にやりましょうよ!」という呼びかけは、前向きに生きる動機づけになります。

空海の場合は、両部を統一して、独自の密教を創り上げました(という言い方が正しいか分からないが)。そもそも三教指帰を著したころから「仏教は全体の真理、儒教・道教は仏教の一部分」と考えていましたから、儒教・道教も衆生の迷いの中で生まれ仏教に統一されるものと言い換えれば、終生一貫した仏教に関する持論と言えるかもしれません。

「起信論」では、衆生にもう一つの意味を込めているそうです。それが次回です。

《つづく》