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「意識と本質―精神的東洋を索めて」(岩波文庫)
「意識と本質 1」を読みました。

《以下引用》
…だが、このように「本質」が終始一貫して無であり、ないものであるとすれば、結局この現実の世界には本当の意味であるといえるものは何一つなくなってしまうわけで、もしそれでも経験的事実として事物は存在しているというなら、その存在は妄想の所産であり、世界は夢まぼろしのごときものであるということになるのだろうか。事実、通俗的仏教ではそんなことを言う。経典もさかんに現世の儚さを説く。しかし哲学としての仏教はそう簡単にはそのような結論に行くことはしない。なぜなら、大乗仏教の形而上的体験における空には、「真空妙有」という表現によって指示される有的局面があるからだ。「本質」が実在しなくとも、「本質」という存在凝固点がなくとも、われわれの生きている現実世界には、またそれなりの実在性がある。「本質」はないのに、事物はあるのだ。「本質」の実在性を徹頭徹尾否定しながら、しかも経験的世界についてはいわゆるニヒリズムではなく、分節された「存在」に、夢とか幻とかいうことでは割りきれない、実在性を認めるのは、東洋哲学全体の中で、所々に、いろいろな形で現れてくるきわめて特徴的な思惟傾向だが、この東洋的思惟パタンを、大乗仏教において、特に顕著な姿で我々は見出す。

「本質」ぬきの分節世界の成立を正当化するためにこそ、仏教は縁起を説くのだ。だが縁起の理論は、理論的にはいかに精緻を極めたものであっても、実践的にはなんとなくもの足りないところがなくはない。この現実の世界でわれわれが実際に交渉する事物には、縁起の理論だけでは説明しきれないような手ごたえがあるからだ。大乗仏教の数ある流派の中で、この問題に真正面から、実践的に取り組もうとしたのが禅である、と私は思う。
《引用終わり》

この章で、大乗仏教の「本質?」をかなり言い当てているような気がします。「意識の形而上学」にも同様のことがありました。この仏教的視点に触発されて、以前に私が書いた拙いものもありまして、これ以上深い考え方は無いだろうと思っておりましたが、同じく経験界における「本質」の虚妄性を認めるところから出発しながら、不二一元論ヴェーダーンタは大乗仏教とは正反対のテーゼに到達しているそうです。

また、「本質」の実在性を全面的に肯定する強力な思想潮流も東洋哲学の中にはあるそうです。これを、これから見ていくようです。

「禅における言語的意味の問題」「対話と非対話―禅問答についての一考察」という二つの論文が後にありますので、禅に関する興味深い考察はここでなされることと思います。

《つづく》