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「唯識入門」(春秋社)
「第六章.唯識の修行論」の「三.中観派の唯識批判」を読みました。

《以下引用》
最後にこの瑜伽行派の唯識説、そして如来蔵思想にたいして起こされたインドの大乗仏教内部からの批判についても、一言しておきたいと思います。その要点は、アーラヤ識とか如来蔵とか、なにやら絶対的な原理を立てて、その実在を主張するのは外教のアートマン説に近く、仏教の無我説に違反するというものです。
《引用終わり》

詳しい主張は本書を見ていただくとして、お互いが他方を未了義(方便)、自説を了義(究極の教え)と主張し合い、対立してきたそうです。

筆者の考えを最後に述べているので、メモっておきます。

《以下引用》
アーラヤ識の実在性というのは、わたくしは、さきほど申しました転依、つまり宗教的な転換の主体たるものということ、すなわち、それなくしては迷悟を論ずるのも無意義となる、修行者各自の実存を意味しているものと考えます。

これは如来蔵についても言えることで、如来蔵・仏性というのは修道論的要請としての実在というべきで、決して存在論的に不変の実在というわけではありません。ただし、如来蔵が普遍性を強調され、それだけに実体性を付与される恐れが強いのにたいし、アーラヤ識はより個々の修行者に密着して設定されているといえましょう。実存とよぶゆえんです。

修行者の実存という点では中観派における菩薩も同じように思われます。ただ中観派はそういう主体の問題については一切論じません。それにもかかわらず、たとえば慈悲の問題を取り上げるときなどは、宗教的実存としての菩薩をぬきにしては考えられないことは明らかで、わたくしから見ると、それこそ如来蔵・仏性の具現者としての菩薩像がそこにあると言わざるをえないほどです。要はすべて「真実を見る」ことを要請されている、この無我なる自己の主体的問題、ということに帰着するのではないでしょうか。
《以下引用》

絶対的真理がピタリと言葉で表現できるわけではないから、一つの説に統一できないのは当然ではないかと思います。いろいろな説が並存する中で、あれこれ思いをめぐらすのが修行ではないでしょうか。

《最初から読む》