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「空海の夢」(春秋社)
「結.母なる空海・父なる宗教」を読みました。

一神教と仏教との対比がおもしろかったので、その部分だけまとめておきます。

《以下要約》
砂漠の民の場合、議論の末の決定は唯一者でなくてはならず、その唯一者の決定はたとえそれがまちがっていても従わなければならない。これが、一神教を生む発端です。

一方、鬱蒼としたアジアの森林では歩きすぎることは迷うことであり、右か左かの判断も単一的なものではない。こういうところでは、むしろいったん止まって熟慮するほうがよい。議論もある程度は多いほうがいい。知識は分散されたほうがよく、一点集中はリスクが高い。

こうした事情によって、砂漠の民とは対照的に議論と経験を分散させ、討議のしくみこそが教理となった。問答の様式こそが結論を生む様式となった。

ギリシア的な「線をもつロゴス」ではなくてインド的な「幅をもつダルマ」が重視されていく背景ができあがっていった。

これは反面、迷いを生むことになる。しかし、迷いは必ずしもネガティブなものではない。初期ヒンドゥ=ブディズムの哲人たちは「われわれは迷うものである」という目覚めによって、ポジティブに転換することをこそ思索した。
《要約終わり》

最後の文章が素敵なのでメモっておきます。

《以下引用》
現在性とは宗教や宗教者を過去の成果にしまいこまないことから始まっていく。われわれの一人一人において宗教的現在性は立ち上がっていくものなのだ。なかでも仏教はふんだんのヴァラエティに富んだものである。「たくさんの私」によって動向するものだ。もし今日の仏教が単一のものに見えるなら、それは仏教ではない。もし今日の仏教が過去と未来をつなげようとしていないなら、それは仏教ではないのである。
《引用終わり》

そういう意味で、今日、仏教は存在しているのか…わかりませんが、有無に関わらず、自分から進めていくのがまた仏教なのでしょう。

《つづく》