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「空海の夢」(春秋社)
「23.マントラ・アート」を読みました。

この章は、AとBの対話形式。空海の言語思想について自由に語っているということになっています。

《以下引用》
B:一番の核心は、空海にはインドのマントラの発想と中国の文字の構想と日本のコトダマ観が混然一体となっているということだとおもう。こんな言語思想はむろんインドや中国にはなかったし、日本でもまたはじめてだった。…

A:なぜこんなことが考えられるかというと、ひとつはきっと空海が梵語も漢語も理解できたということにあるとおもう。梵語のマントラやダラニは漢訳仏典ではそのまま音写することが多い。ということはインド的マントラは中国に入って漢字の中にひそむ新しい性質をひっぱり出したということだ。古代日本の万葉仮名時代の最晩期に育った空海には、その「声から文字をつくる」というプロセスがよく見えたのだとおもう。…

B:そうはいっても、本来は果分不可説の宗教世界に果分可説の言語宗教をもちこむのはよほどのことだ。大半の仏教者が現象世界は言語にもなるが、絶対世界のサトリは言語にならないのだから大悟してもらうしかないと言っているのに、むしろ絶対世界のほうが伝えやすいと逆襲しているようなものだ。よほど真言に純粋な伝達力を認めていたのだろうか。

A:真言(マントラ)を自立させて考えていたのではないと思う。むしろ真言の一律性を最大に拡大して、身体領域から世界領域にまでおよぼした。『般若心経秘鍵』には「秘蔵真言分」の一節があるけれど、そこでは「真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く。一字に千理を含み、即身に法如を証す」という考え方を出して、有名なギャティ・ギャティ・ハラギャティ・ハラソウギャティ・ボウジソワカという般若心経の真言ダラニを解釈している。つまりギャティ・ギャティの音に意味をつけてしまったわけだ。空海は真言を純粋培養するというよりも、そこに徹底して意味の世界を入れるということを選んだのだとおもう。…



A:はたして空海がそのように“真言の広布”を考えていたかどうか、疑問だとおもう。一を無数にふやすというより、無数を一にするようなところを感じる。…「一は一にあらずして一なり、無数を一となす。如は如にあらずして常なり、同同相似せり」同じものをクローン的にふやすというのじゃなくて、むしろ相違のあるものを丹念に同じうさせてみるという点に、空海の意図があったようにおもう。…空海が確信していたことは真言か念仏かなどということではなくて、仮にどこかに一人の真言者がいるとするなら、その一人の世界をのぞきこめばそこは無限の真言がはじまりうるということだったんじゃないかとおもう。…
《引用終わり》

このホロニクスのような考え方は華厳経で見つけたものでしょう。畳込み積分として数式でも表現できるし、ホログラムは実際に手にすることができます。特筆すべきは、ホロニクスという概念が広まるずっと昔に華厳経があったということ、そして空海がそこに着目したということでしょう。

声や文字には、発語者が意図しているか否かに関わらず、無限の要素が含まれているということでしょうか。そう考えれば、果分可説も即身成仏も、当然の帰結として導かれてくるような気がします。

《つづく》