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「唯識入門」(春秋社)
「第二章.認識の構造」の「三.三性説」を読みました。

『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第五偈が出てきます。

(1.5)妄想されたもの(遍計所執性)、他によるもの(依他起性)、完全に成就されたもの(円成実性)(という三種の自性)が説かれたのは、(順次に)対象であるから、虚妄なる分別であるから、また二つのものが存在しないからである。

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遍計所執性

虚妄なる「分別」によって「分別された」対象。第一偈の「二つのもの」(所取と能取)、第三偈の「識の顕現」としての対境(六境)・衆生(五根)・我(意根)・了別(六識)の4種。それらは「ない」。

「ない」は、所取については形象形成作用がない(認識作用がない)からとされ、能取については真実でない顕現だからとされていました。所取のほうが存在性は稀薄で、能取には若干の存在性が認められています。

これは、虚妄分別と対象の間で、虚妄分別(性格上、能取)が有で、対象(したがって所取)が無と言われているのと同じ構造が、対象のうちの所取と能取の間にも成立していることを意味します。

依他起性

「他に依るもの」は縁起したものの意味で、その中には無自性なるもの、空なるもの、という意味が含まれているはずですが、この偈では述べられていません。虚妄分別がなぜ依他なるものと規定されるかについては後でとりあげているそうです。

円成実性

この「二のないこと」が「完成されたあり方」。虚妄分別ももはや存在しません(識が虚妄分別としてはたらかない)。虚妄分別は事実としては存在するが、価値的には否定されるべきもの


《つづく》