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「空海の夢」(春秋社)
「10.方法叙説」を読みました。

一度は大学に入った空海です。当時の受験勉強はほぼ暗記力だけが問われたようです。空海は厖大な漢籍を頭に入れていました。『聾瞽指帰』にそれがうかがえるそうです。

《以下引用》
…福永光司さんの空海に迫る分析によると、『三教指帰』の四六駢儷文のことごとくが中国の古典の用例にもとづいて、空海の恣意的な造語はほとんどないといってよいほどだったというのである。…

空海が他の追随を許さないほどの「集めて一つに大成する綜合力」(福永光司)に長けていたことは、空海研究者の誰しもが認めている。私の言葉でいえば、これはエディトリアル・オーケストレーションの妙、すなわち編集構成力というものだ。…
《引用終わり》

私も高校のころ、ウルトラセブンの中のセリフだけで会話をするという遊びを友達としたことがありますが、かなりレベルが違いますね。

編集構成力を空海はどこで身につけたか?ということですが、まず鄭玄の名が挙がっています。詳しくは本書参照ですが、総合的折衷学と比較的方法論に長けた後漢の学者で、『三教指帰』では「北海の湛智」と賞揚されているとのこと。

『後漢書』に、名高い学者の馬融を鄭玄がやり込めてしまい、「吾が道、東せり」と馬融が嘆じたという故事があるそうです。恵果は空海に「我が道、東せん」と言ったそうで、空海は恵果を馬融に自分を鄭玄になぞらえていたとも考えられるそうです。

《以下引用》
…やはり鄭玄の立場は儒教にどっぷりつかっていた。「仏教には鄭玄はいないものか」とおもったことだろう。もし、そうおもったとすればそれは空海の編集思想の感覚の作動を意味している。編集の出発はAに見出したきらめきを異なるBにも見出したいと願うことにある。そこが学問とは異なっている。Aをそのまま突っこんではしまわない。きらめきを多様の中に求めようとする。青年は“仏教の鄭玄”を探したいとおもうことによって、すでに総合的編集思想の第一歩を踏み出していたはずなのだ。…

けれども“仏教の鄭玄”は南都にはいなかった。それははからずものちに空海自身がはたすことになる。そのかわり、「儒教から仏教へ」などというまさに青年の幻想でしかないと一蹴されそうな構想を、現実にもう少しで確立しかかったところで倒れた一人の思索者がいた。青年はその大いなる人の名を何度も聞いたことだろう。淡海真人三船である。…
《引用終わり》

三船の文章の中に次の一節があるそうです。
「六合のうち老荘は存して談ぜず。三才のうち周孔は論じていまだ尽きず。文繁、視聴に窮まり、心行、名言に滞る。三性の間を識るなく、誰か四諦の理を弁せん…」(『大日本仏教全書』)
「老荘思想にはすぐれた感覚があるものの、太虚の考え方はたんなる否定にとどまっていて実在に達していない。儒教は天地の三才を論じるけれど、その根源をきわめない。いずれの認識にも限界がある。三性四諦を説く仏教にこそ今後の可能性があるのではないか。」

奈良時代にも儒仏習合の気運は高まっており、吉備真備が「二教院」という私塾を創ったりしているそうです。この理想は、空海の綜藝種智院に受け継がれているようだ、とのこと。

松岡正剛さんがこの著書と一緒に新聞で紹介されていたのが、まさにこの編集の方法論についてだったと記憶しています。この本の主題が、空海の中に編集者としての姿を見出すことであるとしたら、松岡さん自身が御自分を空海になぞらえているとも考えられます。

《つづく》