ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「唯識入門」(春秋社)
「第一章.虚妄分別とはなにか」の「三.主観と客観」を読みました。

前出の「能取」と「所取」は、それぞれ「主観」(知るもの)と「客観」(知られるもの)と言い換えることができます。前者は我・私・自己であり、後者はその自己によって知られ、見られ、聞かれ、触られ、経験される一切です。これを仏教では「法」と言います。

但し、木とか石とか個別的存在を区別はせず、色(色や形)、声(音)、香、味、触、心(意識)をそれぞれ法として数えます。

そして「すべての法は実在する」という主張を立てたのが、「説一切有部」です。有部は我という実体は存在しないが、その内容を構成している色などの諸要素(つまり法)は実在する、と解釈しました。能取たる我は実在しないが、所取たる法は実在する、という主張になります。

これに対し、「法も実在しない」というのが大乗の主張であり、『般若経』であり、竜樹でした。

自性(スヴァバーヴァ)というのは、固有のあり方、あるいは自立的存在ということで、他の力をかりずにそれ自体存在しているもの。それは永遠不変に有り続けるはずであるが、そんなものはこの世には何も存在しない。なぜなら、ブッダが教えられたように、全ては縁起したもの、他の力をかりて成立しているものであるから。それは無自性であるということ。この「自性の無い」ということを、自性が欠けているという意味で「空」と表現します。

まとめると、
1.有部は、我は存在しないが法は有る(自性、自己存在、固有、特定のあり方をもった存在である)と主張。
2.大乗は、我もないが、法も実有ではない(自性がない、空である)と反論。
3.その根拠は、すべてのもの(法)は縁起しているから。
4.縁起している=自性が無い=空。

まさにこれが竜樹『中論』の三諦偈「因縁所生の法、我即ち是れ空なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦た是れ中道の義なり」の意味するところです。

『中論』の内容がやっと少し分かったような気がします。

《つづく》