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仏の心と言えば、慈悲の心。どうして「悲」なのだろう?という素朴な疑問がありました。悲嘆にくれても仕方が無いじゃないか…という疑問。

「大悲とは、仏が常に衆生の苦難を救済しようとする大慈悲の心をもっていること。」ということですが、「救済しよう」という積極的な気持ちと「悲」という感情とが自分の中ではなかなか結びつかないでおりました。

それが、ある日、納得できるようになりました。「命のノート」を読んで、ボロボロ泣いているときに、「なるほど!これか!」と思いました。

何も悪いことをしてないのに、純粋無垢な小さな命が病気に負けて消えていかなければいけない。救う術は何もない。医者も最大限の努力をし、実の親のように悲しんでいるのだから、責めることはできない。このいたたまれない気持ち。何ともできない歯がゆさ。自分が何かできることはないのだろうか?何かをしてあげたい!という強い衝動。積極的であります。

積極的であるけれども、これは「怒」ではなくて、「悲」です。

このような「悲」は、自分と他者の区別が(涙で?)ぼやけてきます。「悲」は、利己的な気持ちを弱めます(自他の区別が薄らぐのですから)。そして「悲」は、他者を責める気持ちをも弱めます。

老・病・死という苦が無くならない現実は、誰の責任でもありません。そして、根絶することは絶対にできません。であれば、これを現実として「受け止める」必要があります。そして、この苦しみが少しでも減るように(量的改善)、少しでも緩和されるように(質的改善)、即ち救済を願い続けるしかありません。

痛み続ける胸に、両手を合わせてグッと押しつける…つまり、祈るしかありません。「非」の字のような手が、「心」の上にある。これを以って「悲」となす。

そんなことを考えながら、お盆を迎えようとしています。我が家は明日、墓参りです。