事なかれ主義も全体主義も、もちろん好きではありませんが、知恵の発展した一形態ではあろうと思います。行き過ぎはいけませんが、ひとつにまとまろうという方向性は間違いではない。
夫婦という舟、家族という舟、会社とか学校とかいう舟、地域という舟、地方自治体という舟、国家という舟…そして、宇宙船地球号。いずれは、太陽系、銀河系という枠組みを宇宙船とみなす日が来るかもしれません。
舟の中では、小さな行き違いや誤解や諍いは必ずあります。突如発生する小さながん細胞みたいなものですね。これは避けられない。大切なのは大きくしないこと。
そこから先が知恵のみせどころ。圧殺はもってのほか。
他人の言葉に耳を傾けるために「国語力」があります。相手が外国人ならば「語学力」。それぞれの言い分は聞く必要がある。
盗人にも三分の理とはいえ屁理屈も理屈のうち。これを理解するにも、整理するにも、反論して切り返すにも「論理的思考能力」が必要です。
いろいろな知識も必要です。地理的な知識、歴史的な知識、社会制度に関する知識。環境問題等に取り組むことになれば、科学的な知識。
舟の中で、それぞれの考えを認め合いながら、最善の方向を見出していく。知恵は舟の中を照らす光であり、舟の先を照らす光である…
はずなんですけど、なんだか、中途半端な知恵ばかりのような気がしますねえ、最近。地球という舟も、日本という舟も、揺れてばかり。舵を切り直してばかりで、同じ所をグルグルグラグラ…
船酔いに悩む日々が続いています。
夫婦という舟、家族という舟、会社とか学校とかいう舟、地域という舟、地方自治体という舟、国家という舟…そして、宇宙船地球号。いずれは、太陽系、銀河系という枠組みを宇宙船とみなす日が来るかもしれません。
舟の中では、小さな行き違いや誤解や諍いは必ずあります。突如発生する小さながん細胞みたいなものですね。これは避けられない。大切なのは大きくしないこと。
そこから先が知恵のみせどころ。圧殺はもってのほか。
他人の言葉に耳を傾けるために「国語力」があります。相手が外国人ならば「語学力」。それぞれの言い分は聞く必要がある。
盗人にも三分の理とはいえ屁理屈も理屈のうち。これを理解するにも、整理するにも、反論して切り返すにも「論理的思考能力」が必要です。
いろいろな知識も必要です。地理的な知識、歴史的な知識、社会制度に関する知識。環境問題等に取り組むことになれば、科学的な知識。
舟の中で、それぞれの考えを認め合いながら、最善の方向を見出していく。知恵は舟の中を照らす光であり、舟の先を照らす光である…
はずなんですけど、なんだか、中途半端な知恵ばかりのような気がしますねえ、最近。地球という舟も、日本という舟も、揺れてばかり。舵を切り直してばかりで、同じ所をグルグルグラグラ…
船酔いに悩む日々が続いています。
コメント
コメント一覧 (9)
どうせ時が来ればわかることですし、考える力さえあれば、いつか自分で「ひっかかりはじめる」と思います。最初からループするような問題に放りこむのは…ちょっとスパルタ過ぎないかと(笑
思考のセンスがあれば、いずれ自分で「綺麗事」の裏を見抜いて、考え始めると思うんですよね。その時には親子で色々と議論出来たらいいと思うんですけれど、まぁ、思考のセンスは遺伝しませんし、私の小学生時代ように、思考のひん曲がった歪な子供になっても困りものですから、もしかしたら平凡で素直なまま成長したほうが幸せなのかも知れないですよ。最近とくにそう思う事が多いです。
あんまりうだうだ考えるタイプは、最後の跳躍に必要な「感覚」を往々にして見失いがちですから。私のように。
結局、個人個人、みんな見ている世界が違うわけですし、解決策はそれぞれが苦闘しつつつかんでいくしかない…と思います。
世界は客観だけでは成り立っていないし、主観だけでもないわけですから、主観がバラバラである以上、それが規定する客観もバラバラ、それらが組み合わさって現れてくる世界だってバラバラです。
確かに主客以前の「それ」は普遍でありみんな同一の「it」ですけれど、現実の森羅万象は色々です。
残念ながら現象世界はそんな感じですが、そのバラバラの世界の住人がそれぞれの主観と客観の不完全性をしっかりと踏まえて、言葉以前の絶対、その無差別性・完全性を「生きる事・覚ること」が可能なんだと、本源的「一性」を少なくとも信じて行けれはなぁ、と思います。
この境地を言葉で規定して図式化し、教条化できれば苦労はないのですが、残念ながら仏教教理と言えども、その影を指し示すことしか出来ません。
neti neti.
あとはそれぞれがそれぞれの責任で考えて、実践するだけです。
仏教…なんて救いのない宗教でしょうか(笑
まぁ、その影を実体として把握しても、それはそれで良い宗教にはなると思いますし、それを突き詰めていけばいずれそれが影である事に気づく場合だってあるわけですから、別に教条的だから絶対ダメ、とは言えませんけれど…特に現場では…。
日蓮宗や真宗に見られる傾向も、光と影の関係みたいなもんですかね…「○○はダメだ!」と言ってる人が一番○○だ!みたいなことは世の中よくあることですよね。
やはり、具体的な方法は無いんですね…娘になんて言おうかな…。まあ、そんな質問するのはだいぶ先でしょうし、こんなことを議論し合える人間になって欲しいものです。
一乗は素晴らしい考え方ですが、それを正面から奉じている筈の日蓮系がもっとも排他的、ということも見逃せません。あるいは人間の弱さを認めて、みんな弱くていいんだよ、という真宗はかなりの武闘派だし。
まぁ、私は根強く、一乗・如来蔵の理想を説いていきたいと思います。
仏教でも確かに論争はありましたけれど、例えば玄奘三蔵の『大唐西域記』などによると、当時のインドでは大乗小乗の比丘すべて共住でサンガを形成していたらしいです。ナーランダー僧院においても、小乗・大乗・密教すべて共住です。
もちろん論争はありましたけれど、極めて論理的な論争であって、どちらかと言うと今の学術論争に近い部分があったのでは…? ですから対立する者同士でも、戒律に従っていればともに「比丘」として認めあう…という。
そういう雰囲気は宗派仏教が成立した中国でもある程度は継承されていたのですが、日本では奈良仏教までです。天台宗が南都仏教を排撃し、弘法大師が南都仏教を密教至上主義によって取り込んで以来、徐々に宗派主義が顕著になり、鎌倉時代に一気に各派対立に至ります。
その後は血で血を洗う宗教戦争もありましたしね…。
大乗仏教の理念がいくら素晴らしくても、それを奉ずるのは人間です。自己絶対化の欲求は根深いですし、それを宗教というものは容易に汲み上げてしまうのかも知れませんね。
まさに、光が強ければ強いほど、影も濃くなる、ということなんだと思います。難しい。
まだまだ勉強不足な段階での私の印象なのですが、大乗仏教では激しい論争は繰り広げられてきましたが、キリスト教のように負けた人たちを徹底的に弾圧したりはしなかったんじゃないかと思うのです。(私が知らないだけかもしれませんが)
それはつまり、「違うのは当然として、しかしその根底には同一の世界があるのだ」という認識があったのではないかと。論争の後に握手して抱き合うみたいな、スポーツマンのような清々しさまでは行かないにしても。
…で、大乗仏教にはそういう「お互いの違いを認めた上で一緒にいよう」という雰囲気がある!ということを踏まえて、一乗の方法論とかエッセンスみたいなものを抽出することはできないだろうか?と、思っています。それは、世界平和とか、これからの地球の舵取りの大きなヒントになるんじゃないだろうか?と。
まあ、そんな簡単な話なら、水波坊さんがとっくに世界をまとめていると思うんですけど…。
まったく一緒になる、ということならそれは不可能ですが、例えば違うのは当然として、しかしその根底には同一の世界があるのだと自覚する…のは可能かも知れません。
大乗仏教は、私は「被差別者」の宗教だったのではないかな、と思うんですよね。密教なんかは顕著ですが、他の大乗にしても。
「自分たちは生まれつき程度の低い存在なのか、そうじゃないのか、他の<高貴な>人間と比べてそんなに汚れた存在なのか」というそもそもの問題意識が、大乗仏教思想には感じられます。そうして、人間の本性とは何か、という点で、画期的な思想を提示していった…。
思えばイエスもガリラヤ出身ですが、あの地域もちょっとした揶揄の対象だったそうで、彼自身も大工という下層階級者でした。
紀元前後に勃興した「被差別者の宗教」が現在まで世界に広まって根強く残っているのは、そこに弱者を切り捨てない統合の考え方があるからだと思います。
一乗というのは、そういうところから出て来たものなのかな、と。
一方で、被差別集団出身でなかった釈尊は、その仏教的考え方は完璧でしたし、比丘教団内における一切の差別を排した画期的な平等思想の実践者でしたけれど、少なくとも比丘と在家の一線を決定的に認めた部分については、私は当時のインドの一般的宗教概念に従い過ぎたと考えています。
まぁもっとも、現在の一部宗教が主張するほどの深い溝であたとは思いませんが(出家至上主義は、少なくともその一部分は後世の比丘による自己神格化の主張でしょう)。
「喧嘩ばかりのこの世の中で本当にそんなことができるの?」と聞かれたら、「宇宙から見たら地球なんて点に過ぎない。そのひとつの点の中にみんながいるんだから、いつかはできるさ。みんなが同じひとつの点なんだから、できないはずがないだろう?」と答えたい…。
「でも、本当に本当?大人のウソでしょ?」と自問している自分がいます。
最近、「地球一乗」という言葉が頭に浮かびました。「自他不二を唱える我々がひとつにまとまらない訳がない!しかし、完全にはまとまっていない現実がある…」そんな思いが仏を信じた先達の中にもあり、その悲願を「一乗」という言葉に込めたのかな…と。
どう、思われますか?
みんな自分自身を世界全体にまで肥大化させてしまってるので、少しでも意に添わない出来事は我慢ならなくなっているのでしょう。
確かに私もよく「絶対的一」について考えますが、これはアホで煩悩まみれの私そのままを肥大化させたものでは決してないんです。でも往々にして…。
いずれにしてもこの世界、現実には相対の世界ですから、ともに「共通の手段」つまり「論理」か「特定文化内の暗黙の共通認識」で話をするしか相互理解の道はありません。
前者の能力が低く、かつ後者のセンスも失っているとすれば、そりゃ真っ当な相互理解は誰とも成立しようがありません…。
…あ、私か…。