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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十三」を読みました。

この章は、嵯峨天皇が空海を乙訓寺に移させたことについて詳しく書かれています。が、ここでは、奈良六宗に対する最澄の空海の立場の違いについて述べた部分だけを取り上げます。

《以下引用》
「奈良六宗などは、仏教の本質ではない」
と、最澄は渡唐する前にそう思い、帰朝後は最澄の保護者だった桓武天皇に説き、他にも説き、奈良の諸僧にも説き、ついには奈良仏教から独立して叡山に天台宗を新設することを国家に認めさせた。奈良仏教は論である。あくまでも論であって、釈迦の言葉が書かれている経を中心としていない、さらには人間が成仏できるということについての体系も方法も奈良は持っていない、と最澄ははげしく言いつづけているのである。


…奈良にとって最澄の天台学がおそろしいのではなく、仏教は本来、中国をへた外来のものであるということが、問題であった。奈良仏教は古い時期に渡来した。しかしながら最澄がもたらしたものは時間的な鮮度がもっともあたらしく、また体系としても斬新であった。旧も新もいずれもが外来の体系である以上、新しいものが古いものを駆逐するというこの国の文化現象の法則が、この時期、史上最初の実例として奈良勢力を動揺させていると言える。

『十住心論』にみられるように以下は空海の持論だが、
――華厳はなんとかなる。

ということを、かれは奈良の長老たちに繰りかえし言ってはげましていたにちがいない。なんとかなる、というのは、空海の思想世界でいえば旧仏教であることから密教のレベルへもう一跳びでたどりつけるということである。華厳経は宇宙の運動法則とその本質を説明する世界で、あくまでも説明であり、あるいは純粋に哲学といえるかもしれない。その哲学を、密教の目標である即身成仏という世界へ宗教として変質させるということが可能だというのが空海のなんとかなるという意味であった。その言葉により、奈良の長老たちは願望をもった。「東大寺を密教化してもらえないか」ということであった。そのことは、長老たちの思想家としての本心から出たのか。それとも、
――ざっとした鍍金(メッキ)でいい。
ということだったのか。
《引用終わり》

空海は高雄山を出ないと宣言したにもかかわらず、嵯峨天皇の便利のために乙訓寺別当を命ぜられ、奈良仏教からの依頼で東大寺別当をも勤めることになりました。

最澄の存在感が急速に失せているのと、これまた対照的であります。

《つづく》