ブログネタ
司馬遼太郎を読む に参加中!
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の十八」を読みました。

ひと足先に帰国して天台宗の体系を持ちかえった最澄ですが、桓武天皇や廷臣たちの関心は、ついでに越州から持ちかえった密教に集中しました。空海が出発したころの無関心さとは一変していました。玄宗皇帝が不空の密教に傾倒したという話が伝わってきたのに、密教は伝わっていなかったために、大いに関心がたかまっていたのです。

桓武天皇は、最澄のもたらした天台については触れず、密教にのみ昂奮し、密教をもたらしたがゆえに最澄を国師であるとし、旧仏教の長老たちに潅頂を受けさせよ、と命じました。

最澄の密教は、越州で(ひと月ほど滞在)、順暁という僧から教わったものでした。
《以下引用》
このとき最澄自身には自分が何を得たのか、十分わからなかった(あとになって最澄は気づき、最澄らしくきまじめな、いわば好もしい態度で狼狽する)。さらにいうと、最澄はこの越州でのあわただしい相承のとき、正統密教を構成する二つの部門である金剛界も胎蔵界も、区別がつかなかったような気配さえある。
…《引用終わり》

一方、帰国の途に就いた空海もこの越州に四カ月ほど滞在し、神秀という華厳の大学者に会い、その奥旨を会得しました。

帰国した者は大宰府に一旦滞在し、朝廷からの指示を待つのが恒例でした。そして、なぜか、空海だけが残留し、一年ほどここで過します。大宰府には観世音寺があり、奈良六宗の西国における出先機関でした。

《以下引用》…
空海の旧仏教に対する立場が――これは生涯を通じてのことであったが――最澄ときわだって異なっている。空海が、越州において華厳学者神秀を訪ねたことでもわかるように、かれは奈良六宗の一部門である華厳学に関心が深かった。かれは入唐以前、大日経的世界を独力で模索していたとき、独力ながらもその深奥に達することができたのは、大日経世界に類似する哲学ともいうべき華厳経に通じていたからであった。空海は華厳経に対して学恩を感じていたようであってし、ひきつづき関心を継続させていた。のちにかれは華厳研究の専門機関である東大寺の別当に一時期就任するはめになってしまう(空海が別当になったことによって東大寺の華厳哲学に密教的解釈が入るようになり、こんにちなおその伝統がつづいている)。つまり、それほどまで、空海は奈良仏教に親近感をもっていたし、すくなくとも最澄のようには排撃しなかった。

すでに、奈良六宗のひとびとは、最澄から攻撃されるまでもなく、自分たちの仏教が論であって教ではないと思い、旧物に化しつつあるという落魄感を、多少はもつむきもあったに相違ない。やがてその救いを、最澄と対立するかのような空海に求めようとするのだが、
この筑紫においてもすでにそうであったであろうか。観世音寺の学僧たちは空海の説くところをきいて、すくなくともその教説に敵意は持たなかったことだけは、十分想像しうる。…《引用終わり》

最澄を国師としたところに、空海が現われました。密教の伝法者が二人も出現し、朝廷は当惑したことでしょう。僧と寺に関する最高行政機関の僧綱所が調査をしたはずです。僧綱所は、不空の嫡系が恵果であることも知っていたであろうから、空海が不空密教の正嫡であることも想像できたでしょう。一方、最澄に密教を譲った越州の順暁がどういう人かも分かっただろうし、最澄は越州に一カ月足らずしか居なかったことも調べたでしょう。

「最澄、未ダ唐都ヲ見ズシテ、只辺州ノミニ在ツテ即便還リ来ル」という痛烈な奏文を、後年、奈良の長老護命ら書いているとのこと。

以上は、空海だけが大宰府に残留したことに関する司馬遼太郎の推理です。

ともあれ、「上京してその教えを流布せよ」という勅命が、空海に下ります。

《つづく》