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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「七章 心」の後半を読みました。

唯識説は迷っている凡夫の心のあり方を説明しているのに対し、どんなに迷っていても心は清らかで、仏の心と同じだという見方があります。この心を「自性清浄心」と言います。

唯識説でいう心は、狭義ではアーラヤ識だけを指しますが、広義ではマナス(意)や六識や、心に伴って現れる種々の心作用(心所法)にいたるまでが含まれます。

《以下引用》
…それに対し、この考え方によると、心と、心にともなう作用(あるいは属性というのも同じ)としての煩悩などとを切り離し、煩悩などは心の上に外からやってくる客、つまり一時的滞在者のようなものだという(客塵煩悩)。外からやってくるからといって、どこかに煩悩が実在しているわけではなく、それはもともと存在しないのだが、心がものの道理をわきまえず真理を知らないとき、つまり無知(無明)であるときに現われ出て心に付着し、心を汚す。それが凡夫における状態である。場合によっては、それは月の光をさえぎる雲にも喩えられる。雲が行き過ぎれば月はまたもとどおり皓皓と輝く。悟りというものは、ちょうどこの雲間を過ぎてふたたび光をとりもどした月のようなものである。さらに言えば、雲がおおい、光をさえぎっているように見えても、実は、月の光は前も後も少しも変わらずに光り輝いているように、迷悟にかかわらず、衆生の心もつねに輝いている。心それ自体は汚れることはない。…
…同じ変わらぬ清浄な心が、修行によって、そのことを知るか否かによって、あり方の異なっていることが教えられており、したがって修行、訓練による心の変化が要求されているが、ただ唯識説のように心自体の転換ではなく、心の状態の変化(心そのものは不変)としてとらえられている。
《引用終わり》

このような見方は阿含の教えの中にも多く見られましたが、アビダルマの仏教ではあまり関心が持たれず、大乗仏教になって急に脚光を浴びます。

《以下引用》
…『般若経』では、「自性が清浄」とは自性がないこと、つまり空という意味と解釈した。そうなると、唯識説のところで述べたように、迷うも悟るも心が要という教えと近くなる。もちろん、その教えと自性清浄心の考えとが矛盾するものではなく、両方の統一は可能であるが、『般若経』の場合は、それ以上に心の問題を掘り下げることをしなかった。…
《引用終わり》

自性清浄心の教えを出発点として学説を展開させた系統が、如来蔵思想ということになります。

《以下引用》
…自性清浄心が、全面的に無為法、真如、法界、法身という絶対的価値そのものと同一視されるようになると、煩悩の存在はますます影がうすくなって極小化される。そのあげくには、煩悩はもともと無いものだから、衆生は本来覚っている(本覚)という言い方まで出てくる。これは場合によっては修行による浄化という過程をも極小化させることにもなりかねない。また逆に、それにもかかわらず、現実にはどうしてこうも煩悩が多く、なかなか除くことができないかということを説明不可能にもさせる。実はアーラヤ識の説が生まれるについては、このような難問に対する解答という意味もあったようである。…
《引用終わり》

自性清浄心=如来蔵と、アーラヤ識とは、同じ一つの心の表と裏、楯の両面のように相反し、対立しつつも、決して切り離せません。そこで、それを同一視する考えが生まれ、それが『楞伽経』となり、『大乗起信論』で完結しました。『起信論』は、その基本を如来蔵のほうに置き、如来蔵の側面を「心真如」、アーラヤ識の方面を「心生滅」と呼んでいます。その場合でも、如来蔵の上にどうして本来ありもしない煩悩が現われるかというメカニズムは必ずしも巧みに説明されているようには見えない(そうです)。

《以下引用》
…唯識説では、如来蔵の学説は真如・法界の説明といっしょに導入され、円成実性と同一視されている。しかし、その重点は、迷悟転換の基盤としての中性的な場といった意味がつよくなり、悟りの原動力という意味あいはうすれている。そして悟りを、迷いの根元であるアーラヤ識の転換、自己否定に求めた点で、宗教的実践のうえで如来蔵思想以上の深みを示すけれども、どうしてそのような転換がおこるかについてのメカニズムについては必ずしも十分に成功しているとは見えない(術語でいうと、アーラヤ識に、それと本質上あい容れない無漏の種子が、法を聞いた余熏として生じて〔聞熏習の種子〕付着し、しだいに本体を抑え、消滅させるにいたるという)。結局、両思想は相補的に仏教の求めるもの、悟りにいたる実践の主体のあるべき姿を明かすものと言うべきであろう。…
《引用終わり》

「光は波である」という見方と「光は粒子である」という見方の両方を相補的に用いないと、光の性質を語ることができないのと同じようなことなのでしょうか…。

《つづく》