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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の五」を読みました。

この章はインド孔雀で始まります。孔雀は毒蛇や毒蜘蛛も容赦なく食べてしまうそうで、この解毒作用にドラビダ族(非アーリア人の一種族)の人々は驚き、自分たちもそうなりたいと思った。そのために孔雀の咒をとなえた。

《以下引用》
…咒は、言語である。しかし人語ではない。自然界が内蔵している言語であり、密語の一種であり、人間がその密語をしゃべるとき、自然界の意思がひびきに応ずるがごとくうごく。もっとも咒が息づいていたころのインド土俗にあっては自然と人間は対立するものでなかった。人間の五体そのものがすでに小宇宙であるとし、従って、小宇宙である人間が大宇宙にひたひたと化してゆくことも可能であり、その化する場合の媒体として咒がある。…
《引用終わり》

バラモンたちも大量の咒を使っていたが、釈迦はそれを嫌った。教義上嫌ったのか、僧が咒で衣食することを嫌ったのかは分からない。咒には、ひとの病気をなおしたりする修行者の護身のための善咒と、他人を呪い殺したりする悪咒とがある。釈迦が禁じたのは悪咒で、善咒は時と場合によってはやってもかまわない黙認のかたちだったらしい。

《以下引用》…
釈迦の仏教は、インドにおいてはながくつづかなかった。釈迦教に従ったところで、人間が肉体をもつことによる苦しみから解脱するというきわめて高級な境地が得られるのみで、しかも解脱に成功する者はすくなく、あるいは天才の道であるかもしれなかった。平凡な生活者たちは現世の肯定をのぞんだ。そういう気分が咒を核とする雑密を生み、仏教の衰弱とともにそれらが活発になり、さらにはそれら雑密が仏教的空観によって止揚され、統一され、ついに純粋密教を生むにいたる。さて、そういう過程において、孔雀についての思想も変化してゆくのである。
《以下引用》

孔雀の解毒機能が、人間の解脱を妨げる精神の毒(貪ること・瞋ること・癡かしいこと)にも作用するとして、「孔雀明王」が成立。やがて、密教の中に合流していく。

《以下引用》…
紀元一世紀ごろから六、七世紀ごろまでのこの亜大陸のアラビア海に面する西南海岸では、地中海とのあいだの貿易がさかえて多くの港市が発展し、後世のインド人からは想像しがたいほどに精力的な商人が活躍していた。…

釈迦は商利の追求を貪りとして人間の三毒のひとつとしたが、現世の栄耀を否定するかれの宗教がかれの死後二百年後で力をうしない、とくにこの西南海岸の諸港市において変質もしくは他のもの――密教――に変らざるをえなかったのは当然であったかもしれない。…

この商業的世界に当然ながら無数の土俗的雑密が流入していた。そして商人たちに福徳をあたえていた。雑密を好むくせに、一面では宇宙的構想を好むインド人たちは、たとえば星屑のように未組織のままに、カケラとして存在している雑密の非思想的な状態に耐えられなくなったらしい。これらカケラのむれを、哲学的磁気で吸いあつめ、壮大な宇宙観のもとに体系づけようとした。…

その作業のためには、たとえばキリスト教が神という唯一絶対の虚構を中心に据えてその体系に真実をあたえたように、インド的思考法もまた絶対的な虚構を設定せざるをえなかった。…このため、生きた人間として歴史的に存在した釈迦をも否定し、あるいは超越せざるをえなかった。
「この大いなる体系を、大日如来が密語(宇宙語)をもって人間に説法した」

…おそらく人類がもった虚構のなかで、大日如来ほど思想的に完璧なものは他にないであろう。大日如来は無限なる宇宙のすべてであるとともに、宇宙に存在するすべてのものに内在していると説かれるのである。太陽にも内在し、昆虫にも内在し、舞いあがる塵のひとつひとつにも内在し、あらゆるものに内在しつつ、しかも同時に宇宙にあまねくみちみちている超越者であるとされる。
…《以下引用》

壮大な思想体系がどんなふうに出来上がっていったか…推理するのは楽しいものです。司馬説によれば、密教は現世的であり、現代のような経済社会とも相性がいいことになります。

《つづく》