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「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第三章 奈良」を読みました。

《以下引用》
…男山の南麓、交野は788年(延歴7年)に桓武が中国の皇帝を真似て、天壇を築き、生贄の牛をささげた地である。のちに坂上田村麻呂が連れ帰った蝦夷の将、アテルイとモレをだまし討ちにしたのもこの地だったという。…
《引用終わり》

東北の人間としては微妙ですが…京都周辺に行ったことがないので、航空写真はワクワクします。

確かに平城京よりも長岡京の方が海(大阪)に近くて、便利そうですね。ただ、京都盆地を意識すると偏った場所です。琵琶湖に引っ張られるようにして、平安京に移って行ったんですね…


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《以下引用》
…ひとたび人間とは何か、という哲学的問いを立てたならば、本質的な問いを回避した所に積み上げられる知識や規範などは、逆にみずからの精神を束縛しようとするものだと感じられる。さらに、世の中の秩序が、大衆を奴隷的精神の持ち主へと貶め、管理することによって成り立っていると考えたならば、高級官僚など、いわばその精神的な奴隷たちのリーダーに過ぎないと思い至ったであろう。…
《引用終わり》

24歳の空海の著作『聾瞽指帰(ろうこしいき)』『三教指帰(さんごうしいき)』に、こういった思索の経過がまとめられているのでしょう。いつか読みたいです。

《以下引用》
…密教は7世紀のインドで成立したとされる。釈迦仏教、すなわち厳しい修行によって煩悩をたちきり解脱をめざす宗教からは大きく変質し、現世を肯定、欲望をも否定しない。少なくとも印象においては、まったく新しい宗教であった。

密教が生まれたころの世界において、釈迦の教えはすでに少数の修行者だけのものではなくなっていた。しかし教えを受ける庶民たちの多くは、欲望を断ち切ることなどできない。到底たどりつけない解脱の境地と照らして、みずからが当然の本能としてもっている煩悩の大きさに精神の負い目を抱かずにはいられなかったであろう。密教を生み出した哲学者たちは、おそらくこのような人間精神のありようを、惨憺たるものだと感じたであろうし、だからこそ、釈迦の思想を昇華させることで、生に対して肯定的な宗教を作り出そうとしたのかもしれない。かれらがその思想の中心に据えたのが、大日如来という宇宙の真理を体現する絶対的な「虚構」であった。…
《引用終わり》

人間とは何か、という哲学的問いの答えを「あの世」に求めている宗教・宗派は多いのではないでしょうか?これは逃げであり、ごまかしではないかと思います。

でも、空海は逃げません。

《つづく》