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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の三」を読みました。

今回はアダルトなところから。
《以下引用》
…空海のような地方豪族の子弟の場合は、色を鬻ぐ家の軒をくぐらざるをえないが、宇宙の神秘や人間の生理と精神と生命の不可知なものについてずぬけて好奇心の旺盛な空海が、そういう家に行って性の秘密を知ろうとする自分の衝動にどのようにして堪えたであろう。あるいは堪えなかったかもしれない。堪えよという拘束の稀薄な社会である以上、自分の中の倫理的悲鳴を聴くわずらわしさなしにそういう家へゆき、自分の皮膚をもって異性の粘膜に接したときに閃々として光彩のかがやく生命の時間を知ったにちがいない。その時間が去ったときに不意に暗転し、底のない井戸に墜落してゆくような暗黒の感覚も、この若者は知ったはずであるかと思われる。のちの空海の思想にあってはその暗黒を他の仏徒のように儚さとも虚しさともうけとらず、のちの空海が尊重した『理趣経』における愛適(性交)もまた真理であり、同時に、愛適の時間の駈け過ぎたあとの虚脱もまた真理であり、さらには愛適が虚脱に裏打ちされているからこそ宇宙的真実たり得、逆もそうであり、かつまたその絶対的矛盾世界の合一のなかにこそ宇宙の秘密の呼吸があると見たことは、あるいは空海の体験がたねになっているかのようでもある。…
《引用終わり》

この描写、司馬遼太郎の体験がたねになっているかのようでもある。そして、この描写に共感を覚える私もまた…

《以下引用》
…空海は万有に一点のむだというものがなくそこに存在するものは清浄――形而上へ高めること――としてみればすべて真理としていきいきと息づき、厳然として菩薩であると観じたのみである(ただしついでながらこれは釈迦の思想ではない。釈迦の教団は、僧の住む場所に女の絵をかかげることすら禁じたほどの禁欲の教団であった)。さらについでながら、理趣経の文章が律動的な性的情景を表現しているということは、空海以後、それが漢語であるがためにあまり的確には知られることが少なくて過ぎてきたが、大正期あたりから梵語学者の手でそれが次第にあきらかにされはじめた。ただ空海は長安においてインド僧から梵語を学んだためにそのいちいちの語彙のもつ生命的情景も実感もわかりすぎるほどにわかっていたはずである。…
《引用終わり》

ティーンエイジャーの空海は『理趣経』には出会っていないはずですが、『世の取りきめのみを説く儒教』にうんざりし、自分が求めているものが仏教には有りそうだという確信を得ていきます。

《以下引用》
…人間の内臓、筋肉、骨格、皮膚はことごとく万人に共通し、その成分もことごとく同じである以上、自他の区別というのはどこでつくのであろう。どれほど小さな一点においても区別がつくはずがなく、人間の生理的内容も、性欲をもふくめた人間の活動もことごとくおなじものであり、差異はなく、差異があると信じているのは人間のもつ最大の錯覚にすぎず、その最大の錯覚の上に世の中が成立しており、孔子が「いまだ生を知らず、いはんや死をや」といって弟子の質問を避けたようにその錯覚をはれものにおびえるようにして触れることなしに成立しているのが儒学ではないか、と空海はおもった。あるいはおもったであろう。…
《引用終わり》

これは現代社会においても全く事情は同じように思います。こういった疑問を突き付けられた時、大抵の大人は戸惑うしかありません。空海はこの疑問を叔父に突き付けて、延歴十年(791)に十八歳で入った大学を一年ほどで中退します。

全く時代を感じないのは、司馬遼太郎の腕もさることながら、空海の苦悩が時代を超えた根元的なものだったということだと思います。そしてそれは、仏教あるいは真言密教が今日でも十分通用することを裏付けるものでもあります。

更に言えば…

「性」なくして誰一人誕生しえないのですから、完全な体系を構築するためには実は絶対に外せないテーマなのです。立川流のような偏向の恐れを空海も感じてはいたでしょうが、それでも敢えてその教えの中に取り込んだということは、本当に人間の営みの全てを取り込むのだという強い決意が感じ取れます。そして、そんなことでは自分の構築した体系は揺らがないという絶大な自信も感じ取れます。

空海という男…物凄い男に思えてきました。

《つづく》