神の視点については以前も考察しました。今回は、集中から分散への移行という観点で見てみたいと思います。
視点の人間化が分散化とイコールとは言えないかもしれませんが、唯一絶対の神の視点から約70億いると言われる人間に視点が移動するわけですから、必然的に分散すると思うのです。
唯一絶対の神が存在するということになると、卑しい我々の身近にはいなくて、天界のようなところにいらっしゃって、この世のすべてを統括する…というイメージになると思います。
私が会社に入社したころは、コンピュータ・システムも一極集中でした。高性能のホストコンピュータ(正に神のような存在)に回線接続して、最低限のデータ入出力回路が付いた端末で作業をしていました。
これが数年後、クライアント・サーバー・システムに移行しました。ホストコンピュータは中程度の性能のサーバーに、端末は少し性能アップしたクライアントになりました。クライアントはデータの入出力だけではなく、ある程度の演算処理も行う。その分、ホストの負担が減るからサーバー程度の性能で良くなったわけです。処理の分散化です。神(ホストコンピュータ)よりも能力が劣る人間たち(サーバー)の手に物事が託されるようになった…
さらにグリッド・コンピューティングという究極の分散化まで登場しました。が、逆に最近ではセキュリティの問題から、クライアントに情報を残さないシン・クライアントという形になったり、クラウド・コンピューティングが登場したりということで、分散化には若干逆行する傾向かもしれませんけど。
さて、この世はすべて法(法則)に支配されているというのが、仏教の世界観のようです。その法則の一つとして万有引力を例に考えてみましょう。
この世のすべての物質は万有引力の法則に支配されている。質量ある物質間には引力が生じる。身近な例では、リンゴが地球に引っ張られて木から落ちる。
古典力学では、質点という考え方を用います。地球ならば、その質量を持つ体積ゼロの点が地球の中心(厳密には重心)に存在する。リンゴもその重心にその質量をもつ質点が存在し、引力は地球の半径分だけ離れた二つの質点の間に生じる。こういう簡単化をすることで、二点間の問題に帰着させて、問題を解く。これは、まさに視点を集中させています。
ガッテン流に擬人化すれば、地球の中心にいる大男が地球上のすべての物質を引っ張っているイメージ。
ところが、厳密には物質を構成している数え切れない原子どうしで重力は発生しています。地表で考えると、地面を構成している地殻は比重がおもく、海は水ですから比重が軽い。そのため同じ地球上でも、エベレストの近くのように地殻が厚いところでは重力は強く、太平洋上のように地殻が薄いところでは重力は弱い、という現象が観測されています。
これを再びガッテン流に擬人化すれば、物質の中には質量に比例した数だけ重力を生じる「重力くん」なるものが隠れている。地面が分厚いところには重力くんがたくさん隠れているので、リンゴを落とした時、リンゴの中の重力くんと引っ張り合う力が強い。太平洋上では重力くんの数が若干少ないので、リンゴの中の重力くんと引っ張り合う力は若干弱い。
地球の中心にいた大男が散り散りに分かれて、小人になって遍在する。視点の分散化であります。
さらに話を拡大しまして、万有引力のみならず、この世のあらゆる法則を成立せしめる小人がいると考えます。それは「法」そのものですが、擬人化して体をつけているので「法身くん」と呼ぶことにします。
法身くんの頭の中には、この世のすべての法則が入っています。数え切れない無数の法身くんたちが、この世のあらゆるものの中に普く存在する。これって華厳経とか如来蔵思想の世界ですね。
遠いところにいた神という大男が分散して、我々人間や物質の中にまで存在する。これこそ神の視点から人間の視点への移行ではないでしょうか?大乗は視点の人間化の流れをそのまま継承しているように私は思います。
《つづく》
視点の人間化が分散化とイコールとは言えないかもしれませんが、唯一絶対の神の視点から約70億いると言われる人間に視点が移動するわけですから、必然的に分散すると思うのです。
唯一絶対の神が存在するということになると、卑しい我々の身近にはいなくて、天界のようなところにいらっしゃって、この世のすべてを統括する…というイメージになると思います。
私が会社に入社したころは、コンピュータ・システムも一極集中でした。高性能のホストコンピュータ(正に神のような存在)に回線接続して、最低限のデータ入出力回路が付いた端末で作業をしていました。
これが数年後、クライアント・サーバー・システムに移行しました。ホストコンピュータは中程度の性能のサーバーに、端末は少し性能アップしたクライアントになりました。クライアントはデータの入出力だけではなく、ある程度の演算処理も行う。その分、ホストの負担が減るからサーバー程度の性能で良くなったわけです。処理の分散化です。神(ホストコンピュータ)よりも能力が劣る人間たち(サーバー)の手に物事が託されるようになった…
さらにグリッド・コンピューティングという究極の分散化まで登場しました。が、逆に最近ではセキュリティの問題から、クライアントに情報を残さないシン・クライアントという形になったり、クラウド・コンピューティングが登場したりということで、分散化には若干逆行する傾向かもしれませんけど。
さて、この世はすべて法(法則)に支配されているというのが、仏教の世界観のようです。その法則の一つとして万有引力を例に考えてみましょう。
この世のすべての物質は万有引力の法則に支配されている。質量ある物質間には引力が生じる。身近な例では、リンゴが地球に引っ張られて木から落ちる。
古典力学では、質点という考え方を用います。地球ならば、その質量を持つ体積ゼロの点が地球の中心(厳密には重心)に存在する。リンゴもその重心にその質量をもつ質点が存在し、引力は地球の半径分だけ離れた二つの質点の間に生じる。こういう簡単化をすることで、二点間の問題に帰着させて、問題を解く。これは、まさに視点を集中させています。
ガッテン流に擬人化すれば、地球の中心にいる大男が地球上のすべての物質を引っ張っているイメージ。
ところが、厳密には物質を構成している数え切れない原子どうしで重力は発生しています。地表で考えると、地面を構成している地殻は比重がおもく、海は水ですから比重が軽い。そのため同じ地球上でも、エベレストの近くのように地殻が厚いところでは重力は強く、太平洋上のように地殻が薄いところでは重力は弱い、という現象が観測されています。
これを再びガッテン流に擬人化すれば、物質の中には質量に比例した数だけ重力を生じる「重力くん」なるものが隠れている。地面が分厚いところには重力くんがたくさん隠れているので、リンゴを落とした時、リンゴの中の重力くんと引っ張り合う力が強い。太平洋上では重力くんの数が若干少ないので、リンゴの中の重力くんと引っ張り合う力は若干弱い。
地球の中心にいた大男が散り散りに分かれて、小人になって遍在する。視点の分散化であります。
さらに話を拡大しまして、万有引力のみならず、この世のあらゆる法則を成立せしめる小人がいると考えます。それは「法」そのものですが、擬人化して体をつけているので「法身くん」と呼ぶことにします。
法身くんの頭の中には、この世のすべての法則が入っています。数え切れない無数の法身くんたちが、この世のあらゆるものの中に普く存在する。これって華厳経とか如来蔵思想の世界ですね。
遠いところにいた神という大男が分散して、我々人間や物質の中にまで存在する。これこそ神の視点から人間の視点への移行ではないでしょうか?大乗は視点の人間化の流れをそのまま継承しているように私は思います。
《つづく》
コメント
コメント一覧 (7)
曼荼羅の思想とイェーガーの思想は多分、視点が違うのだと思いますので、矛盾ではないと思います。
要は、波が海になるという認識で修行をスタートした場合、どこまで言っても海と波が対立的になってしまう危険性があるので、少なくとも実践的には海が波として自己を覚す、という考えでなくてはならない、ということなんでしょう。
成就した地点から見れば、どちらでも構いはしないことです。
エス研、私は嫌いというわけではなくて、その周辺でオカルトを宣揚する人がいるのが嫌いなんですよね。
密教の本を読んで私が惹かれた点のひとつが、向上門と向下門の双方向性です。だから何だと言えるほどは何も分かっていないのですが、一方向じゃないところが何だかいいなあと感じました。
「海と波」の話とこれらとは全然関係がないかもしれませんが、少なくとも物理学においては状況に合わせて視点を変えて問題解決していますから、一方向じゃないとダメなんだという根拠が見つかるまでは双方向OKの可能性を残しておいてもいいんじゃないでしょうか…。
ズームがない「神の視点」だけのカメラが唯一絶対神の宗教だとすると、大乗仏教はズームがついたカメラなんじゃないかなと思っています。その人、その状況に合わせてズームやピントを調整できるんじゃないかと。だから「神の視点」にピントを合わせることもできる。それが大乗仏教の多様性なのではないかと。
まあ、素人の勝手な想像ですけど。
今回挙げた比喩は自分でも意識してはいないのですが、デビッド・ボームの影響を受けている部分が多々あると思います。ダライ・ラマとも親交があった物理学者です。彼の考えは、物理学や電子工学を修めた人には非常にわかりやすい。お嫌いかもしれませんが、ソニーのエスパー研究所はかなりボームの影響を受けていたはずです。
敢えて仏教は持ち出さなかったのですが、この視点の移行は五身成身観にも似てるように思います。似てるというだけなので、あまり突っ込まないで下さいね。
(つづく)
本来、言葉や概念操作できない・馴染まないことを言葉にするのは難しいですけれど、比喩を比喩として理解して考えると、ある程度のことは「分かり」ますよね。
自然科学については私は素人ですが、この喩えはよくわかりました。
例によって「海と波」ですけれど、イェーガー神父という方の考えでは、海→波の方向性はあるけれど、波→海の方向性はない、ということだそうです。
本来は海だけしか存在しないのですから、波が「自分は海だ」という認識は誤謬で、海が自分を波として認識する、という方向でしか正しい認識はあり得ない、ということのようです。
これは理論的というか、実践的な側面での意見だと思うのですが、確かにそういう視点も面白いし、妥当なんだろうな…という思いがあったので、少しお聞きしてみた次第です。
もう少し考えてみることにします。
声紋鑑定では、ちょっと一言だけ話した音声から全体の周波数を解析してしまいます。同じ声紋(周波数特性)で採取したのと別の言葉を話した音声を作り出すことも可能なはずです。
画像圧縮では、私の顔の写真(画像ファイル)をどんなにサイズダウンしても、必ず顔全体を描きます。もちろん画質の劣化は生じますが…
神という大男→法身くんは、視点の操作であり、頭の中での操作ですから、サイズダウンすらしていないと言いたいのですが、リアルな例ではサイズダウンしないと算盤が合わなくなります。
物理学では、古典力学のように大雑把に解いていい場合は、質点を集中させて二体問題として扱います。でも、より精密な解析が必要な場合は、質点をたくさん想定して多体問題として扱います。この変換は双方向自由自在です。しかも、どちらの視点で扱われようとも、対象は何ら変化しない。地球は地球、リンゴはリンゴです。
あまり分かりやすい例とも思えないのですが、レンズはきれいにカットすれば何分割にカットしてもそれぞれが一応はレンズとして光を集めるはずです。集光の量は減るから輝度は落ちるのですが、像が全体を映し出します。
コンピュータの例で言えば、ホストであってもクライアントであってもシン・クライアントであっても、CPUとメモリーと一連の周辺回路は備えています。
生物もそうかもしれません。一個一個の細胞が全体の設計図を持っていますから、一個の細胞の増殖を抑える因子をうまく外してやれば、ラスカー賞を受賞したiPS細胞のように、生体の中でさえ小→大の変換が可能になります。(つづく)
唯一の大きな神と小さな法身君の関係はどういうものでしょうか?
部分ですか、それとも同一のものですか? また、大→小と分散するようですが、小→大というベクトルは可能でしょうか?
どう考えていらっしゃいますか?