ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「十 如来の転法輪――如来出現の第八相」「十一 如来の偉大なる死――如来出現の第九相」を読みました。

・如来たちの転法輪(法の車輪を前進させること)をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

無比なる転法輪は知覚されない。退転することもなく、一切の時間を超越している。すべての文字を語ってもそのために文字が尽きることがないように、転法輪も辺際がない。

すべての文字は言及されたものに普くゆきわたるがどこにも定着しないように、転法輪も諸音声に普く存するがどこにも定着しない。

諸文字は内にあるのでもなく、外から生ずるのでもない。それらは尽きることなく、なんらの集積もない。

・如来たちの偉大なる死(大般涅槃)をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

「如来がこの世に出現する」ということは、衆生たちが喜ぶことばである。「如来が涅槃にはいる、即ち死ぬ」ということは、衆生たちの愁いを生むことばである。しかし真実には、如来たちは真理の領域に住んでいるから、この世に出現することもなく、涅槃にはいることもない。衆生の願いをかなえてやるために、この世に出現しもするし、涅槃にはいることを示しもする。

如来の日輪は一切の限りない世界の真理の領域を普く照らす。一切の濁りなき世界の濁りなき心をもつ衆生という水の器すべてに、その影をあらわす。しかし、濁った心をもつ衆生の壊れた器には、如来の日輪は見られない。心が濁り、業と煩悩に蔽われた衆生の前で、如来たちが涅槃にはいることを示現したとしても、それを如来たちの欠陥と捉えるのは間違いである。

偉大なる死によって教化すべき衆生に対しては、如来たちは偉大なる死を示現する。しかし、如来たちはこの世に出現することもなく、この世から消えさること(即ち涅槃にはいること)もない。たとえば、火がこの世の全ての物を焼き尽くして鎮火したとしても、この世から火が無くなったわけではない。如来たちの偉大なる死とは、そのようなものである。

技術の習練を完了した幻術つかいがいて、まじないの力によって、世界じゅうのいたるところに長期にわたって幻術を示現したとする。やがて、その中のひとつの国では目的を達成したので、幻術つかいは姿を現さなくなった。しかし、一切の世界から、すべての幻術が失われてしまうわけではない。

如来たちは、偉大なる死を示現するときに、『不動』という三昧に入る。無数の如来たちの身のひとつひとつから無量・無辺の光明が現われ…そこには一切衆生と同じ数だけの如来の身が、仏の徳性のあらゆる飾り飾られて鎮座している。それらの如来の身は、どこかの場所にあるのでもなく、特定の方位にあるのでもなく、有でもなく、無でもない。如来の教えの偉大なる本願によって、衆生たちの能力が成熟した暁には、それらの如来の身もまた、完全な涅槃に入る。

《つづく》