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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの著作」の「4十住毘婆沙論」と「5親友への手紙」、「?ナーガールジュナ以後」の「1ナーガールジュナの思想の流れ」を読みました。

「十住毘婆沙論」は華厳経十地品(十地経)にナーガールジュナが註釈を書いたものです。第九章「易行品」は浄土思想について述べられています。その中の阿弥陀信仰をたたえた部分だけ訳出されています。

「5親友への手紙」は南インドのサータヴァーハナ王朝の国王(二世紀ころのガウタミープトラ王という説もある)にあてた手紙です。

ナーガールジュナの弟子としてはアーリヤデーヴァ(提婆(だいば)、170-270年頃)が挙げられる。『百論』『四百論』などの著作は他学派を批判したもの。唯識派の思想ともつながる。

その後継者としては、ラーフラバドラ(羅序H羅(らごら)、200-300年頃)。この人をナーガールジュナの師であるとする説もある。この系統は一時沈滞する。

中観派は5世紀頃に再び活発となる。ブッダパーリタ(仏護(ぶつご)、470-540年頃)が『中論』に註釈を加え、プラーサンギカ派が始まる。どのような主張であれ必ず誤謬(プラサンガ)に帰着するとし、徹底的な誤謬の指摘を通じて、存在の空であることを相手に悟らせる。この派自体の主張は持たない。ナーガールジュナもそんな感じでしたね。

プラーサンギカ派には、チャンドラキールティ(月称(げつしょう)、600-650年)がいます。『中論』の註釈『プラサンナパダー』を著しました。

中国では、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什(くまらじゅう))の翻訳によるナーガールジュナの『中論』『十二門論』と、アーリヤデーヴァの『百論』に基づいた三論宗という宗派が成立しました。この派の大成者が嘉祥大師吉蔵(かじょうだいしきちぞう:549-623年)です。安息(パルチア)出身の人で、『華厳経』と『法華経』の思想をふまえつつ、中国思想の地盤の上にユニークな思想を展開しましたが、唐の中葉ころには衰えました。

日本には、吉蔵の弟子でもあった慧灌(えかん:高句麗出身)が625(推古33)年に来日して、三論宗を伝えました。が、平安の末期には密教と融合して衰えました。

三論宗に『大智度論』を加えて四論宗というものもある中国で成立しました。後に三論宗に融合しましたが。

天台宗の教理も、『中論』や『大智度論』などをもとにしています(空・仮・中の三諦円融、一心三観)。

また、上述の『十住毘婆沙論』の浄土思想の部分は、後世の浄土教の支えとなりました。

密教も『華厳経』の影響を受けてはいますが、ナーガールジュナの思想の延長線上に位置づけることもできます。

《つづく》