先日から如来蔵系の経典を読んでおります。そして、全ての人、全ての生きとし生けるもの、そして無機物に至るまで、本当はキラキラ黄金のように光り輝くものを内に秘めているのだとイメージするようにしています。
当初は、これによって人間の生きる意味がわかってくるかと思っておりましたが、他人に対する寛容の根拠も見つかるような気がしています。
私が最も不寛容になる瞬間、それはハンドルを握った時です。不便さを強いられた時、人は寛容になれるのではないか?とも思いましたが、結局「のど元過ぎれば…」なんですね。
すべてのものが「光」を内に秘め、しかもその「光」は自他の別を超えてひとつである…そういうイメージ。
対向車の運転手がどんなに悪い奴に見えても、そして実際にひどい運転をしていたとしても、その人の心の奥の奥は光り輝いている…
逆に、このイメージを自分自身に向けたとき、どんなに自分が嫌な奴でも、自分の可能性を信じることにつながるのではないか…
苦悩とかストレスの内訳を見てみると、他人に対する不寛容や自分に対する不寛容が多いのではないかと思います。「如来蔵」という光を信じることで何とかならないものか。そんな期待を胸に、読み進んでいきたいと思っています。
当初は、これによって人間の生きる意味がわかってくるかと思っておりましたが、他人に対する寛容の根拠も見つかるような気がしています。
私が最も不寛容になる瞬間、それはハンドルを握った時です。不便さを強いられた時、人は寛容になれるのではないか?とも思いましたが、結局「のど元過ぎれば…」なんですね。
すべてのものが「光」を内に秘め、しかもその「光」は自他の別を超えてひとつである…そういうイメージ。
対向車の運転手がどんなに悪い奴に見えても、そして実際にひどい運転をしていたとしても、その人の心の奥の奥は光り輝いている…
逆に、このイメージを自分自身に向けたとき、どんなに自分が嫌な奴でも、自分の可能性を信じることにつながるのではないか…
苦悩とかストレスの内訳を見てみると、他人に対する不寛容や自分に対する不寛容が多いのではないかと思います。「如来蔵」という光を信じることで何とかならないものか。そんな期待を胸に、読み進んでいきたいと思っています。
コメント
コメント一覧 (2)
如来蔵は、無明をそのまま受け入れるということではなくて、無明の闇もいつかは晴れるという可能性を信じることかと思います。だからこそ、自分を高めよう、社会を高めようという方向性が生まれるわけで…「現実改革の意識」に直結するものだと思うんですけどね。
この先生の無明もいつか晴れることを祈りたいと思います(笑)。
つまり、「本来みんな仏であるから、修行しなくていいじゃないか」という思考回路でもって、現実改革の意識をも抹殺してしまうのだ、という理屈です。現実に、日本では「天台本覚思想」の蔓延によって、差別容認の理論提供者に仏教は成り下がった、ということです。
それは一面では事実です。
しかし本来の如来蔵思想は、「修行しなくてもいいじゃないか」あるいは「現実の無批判な容認」とは無関係の思想です。
根源的にはすべて「一」、すべて「仏」ですが、しかし妄念にまつわれて我々は、現実には愚かな凡夫、迷いの分際です。そんな我々が形成する社会も、無明によって滅茶苦茶です。
これを本来の真如に帰すための活動をすることこそ、如来蔵思想の目指すべき方向性ではないかと思います。
他者に寛容であることと、無明世界の存在に寛容であることとは違います。
罪を憎んで人を憎まず…と言うのとはちょっと違いますが、つまり、そういうことですよね…。