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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの思想」の「8否定の論理の実践」の「2ブッダ」「3縁起を見る」を読みました。

《以下引用》…
ナーガールジュナが『中論』において述べているブッダ論は、異色のあるものである。一般の仏教徒にとっては恐ろしくショッキングなものである。
…《引用終わり》


ということですが…

《以下引用》…
われわれの経験するこの現象世界がそのままブッダなのである。これも、一切の事物と如来とは別なものではなく、究極において一致しているという『般若経』の説を受けついだものであろう。如来の本性が世間の本性であり、如来の本性は甲であり非甲ではないと限定することはできない。如来はあらゆる対立を超越している。したがって本質が無い(無自性である)といわれる。仏教徒は如来を独立な存在と考えて思弁に陥りやすいが、ブッダとは「名のみ」のものであるから、しばしば、夢、幻、鏡の中の像などに譬えられている。
…《引用終わり》


これは、ショッキングではなくて、「なるほど」ですね…私の場合。

《以下引用》…
『中論』の説くこのような如来は、諸註釈からみると法身(仏の真実の身体)を意味している。…『般若経』によれば、この如来の法身とは、真如、実際、空などと同じ意味であるという。そうしてこれらの諸語はすでに述べたように縁起と同一の意味であるから、さらにつきつめて考えれば如来の法身とは縁起の理法そのものを意味するに違いない。
…《引用終わり》


この考えを最も強く引き継いでいるのが真言宗ではないかと思います

さて、「縁起を見る者」が「さとりを開いたもの(覚者)」と言われ、「法(苦集滅道)を見る者」であり、「仏を見る者」である(p304〜p305に詳述)。

《以下引用》…
縁起説の意味する実践とは、われわれの現実生存の如実相である縁起を見ることによって迷っている凡夫が転じて覚者となるというのである。故に、何人であろうとも縁起を正しく覚る人は必ず等正覚者(ブッダ)となるであろうという趣旨のもとに、無上等正覚を成ぜんがためにこの縁起説が説かれたのであると説かれている(『稲幹経』)。したがって大乗の『大乗涅槃経』においては、ついに、十二因縁は仏性であると説かれるに至った。
…《引用終わり》


縁起の如実相を見る智慧が「般若(明らかな智慧)」になります。般若によって縁起を見れば無明が断ぜられる。そして、十二因縁の各項がことごとく滅し、たんなる苦蘊(苦しみの個人存在)は完全に滅する…

《以下引用》…
ブッダは無明を断じたから、老死も無くなったはずである。しかるに人間としてのブッダは老い、かつ死んだ。この矛盾…の解答は(『中論』には)与えられていない。しかしながら、われわれが自然的存在の領域と法の領域とを区別するならば、縁起の逆観の説明も相当に理解しうるように思われる。自然的存在の領域は必然性によって動いているから、覚者たるブッダといえども全然自由にはならない。ブッダも飢渇をまぬがれず、老死をまぬがれなかった。ブッダも風邪をひいたことがある。しかしながら法の領域においては諸法は相関関係において成立しているものであり、その統一関係が縁起とよばれる。その統一関係を体得するならば無明に覆われていた諸事象が全然別のものとして現れる。
 したがって覚者の立場から見た諸事象は、凡夫の立場に映じている諸事象のすがたの否定である。したがって自然的存在としての覚者には何らの変化が起こらなかったとしても、十二因縁の各項がことごとく滅するという表現が可能であったのだろう。
…《引用終わり》


ここんとこ、すごくいいので、長いけどメモらせていただきました。

《以下引用》…
この「縁起を見る」こと、および縁起の逆観はすでに最初期の仏教において説かれている。ナーガールジュナはこれを受けて、その可能であることを非常な努力をもって論証したのであるから、この点においてもナーガールジュナの仏教は、意外なことには、或る意味では最初期の仏教の正統な発展であると解してもさしつかえないであろう。
…《引用終わり》


《つづく》